時の砂を紡いで

それは、時計の針が存在しない世界で、砂時計だけが時間を刻む場所だった。この世界の住人たちは砂粒の数を数えることで年を測り、一つ一つの粒が意味する瞬間を大切に生きていた。

彼らには特別な能力があった。時間の流れを感じ取り、砂粒一つ一つが落ちる時の音を聞くことができたのだ。しかし、この能力は同時に重大な代償を伴っていた。砂の粒が完全に落ち切るその瞬間、彼らは過去の記憶を全て失い、新たな砂が落ち始めるときにだけ新たな記憶を紡ぎ始めるのだ。

主人公はこの瞬間の紡ぎ手である。彼の役割は、砂時計の砂が最後の一粒落ちた瞬間に全てを忘れ、新しい砂が落ち始めるその瞬間に世界に新たな物語を紡ぎ出すことにあった。彼は毎日、自分が誰であるかを思い出す為に、前の砂粒が持っていた物語を繰り返し語ることで自己を保っていた。

ある日、彼は砂時計の底に小さなひびが入っているのを発見する。砂はいつもより早く流れ、彼の時間は急速に消耗していった。ひびは日に日に大きくなり、やがて砂時計は壊れ、砂は一気に流れ出した。彼は慌てて砂を拾い、時計を修理しようと試みたが、砂は次第に彼の手の中からこぼれ落ちていった。

この出来事が彼に大きな衝撃を与えた。時間の流れが止まることの恐怖、そして砂粒一つ一つが持つ重大な意味を改めて感じ取ることとなった。彼は自分自身の存在、そしてこの世界での役割について深く考えるようになる。自分はただ記憶を失い続ける一人の紡ぎ手に過ぎないのか、それとももっと大きな何かの一部なのか。

修理が終わった砂時計を前に、彼は新たな決意を固めた。もはや過去の砂を拾って記憶を取り戻すのではなく、落ちていく砂をそのままに新しい物語を創造することに専念する。これは彼にとって、一つの解放でもあった。

最後の砂時計が再び動き出す。彼は深く息を吸い込み、静かな空間で一粒の砂を手に取る。その砂粒が落ちる小さな音が、かつての記憶を呼び覚ます。彼はその音を聞きながら、新しい物語の第一行を紡ぎ始める。砂の粒が静かに、そしてゆっくりと落ちていく中で、彼の新たな物語が始まった。

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