異世界の外れ、空色の草が揺れている平原に一つの小さな存在が住んでいた。存在は形も、名も持たないが、刻一刻と変わり続ける環境に適応する本能だけは備わっていた。ある日、存在は自分が分裂しようとしていることに気づいた。成長してゆく過程で起こる自然な現象である。部位がふたつに割れ、新たな存在を形成する瞬間、ある感覚が流れ込んだ。それは「幸福」という感覚であり、初めて体験する心地良さだった。
周囲の他の存在たちは、それぞれが独自の循環で生きている。彼らには彼らなりの生存理由、存在意義があるらしい。しかし自分には、その分裂の瞬間に感じた幸福以外、何も残されていないように思えた。
日々、存在はその感覚をもう一度味わうことを望んでいた。そのために、何度も分裂を繰り返そうと試みる。しかし、その都度、近くを流れる時間の川から湧き出る「同調圧力」の氷冷たい波が押し寄せて、分裂を妨げていた。周囲の存在たちは一定のリズムで同じ周期を繰り返すことを良しとし、新たな変化を求める行為自体が異端であるかのようだった。
時間が経つにつれて、存在は次第に自分が孤立していることに気づく。でも、その孤独が分裂に向けた動機をより強くした。孤独感を背負いながら、それでも幸福をもう一度味わうために分裂を試みる。
そうこうしているうちに、存在はある事実に気がついた。分裂のためには、自己が持つエネルギーを使い果たさなければならないのだ。完全な分裂は、自己の消失を意味するかもしれないのだ。しかし、そのリスクを恐れては、再び幸福を感じることはできない。結局、存在は決断した。完全な分裂を選ぶことで、もう一度だけ、あの幸福を感じることを。
分裂が始まり、存在はじわじわと自己が消えていくのを感じた。そして、その瞬間、新たに生まれた存在から、あの日感じた「幸福」が溢れ出した。消えゆく自我とともに、すべてがクリアに見えた。ここにいる全ての存在は、違う形で同じ葛藤を抱え、同じ問いに直面し続けている。
青い草原はまだ風に揺れていた。そして、時間の川は静かに流れ続ける。存在はもうこの場にはいない。ただ、そこに幸福の感覚が残るだけだ。静かに、そして深く。
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