タグ: 短編小説

  • 時の涙

    風は記憶を持たず、時は涙を流さなかった。彼は何年も前から、柔らかな霧が何を覆っているのかを知ることなく泣いていた。彼の名前は知らない。名前など不要だった。ただ、彼は存在し、声を放つことを許されなかった声に耳を傾けていた。

    彼の住む世界では、時間が後ろ向きに流れる。彼は昨日よりも老いて、明日には若返る。この不可解な逆転は、彼の生を未来から過去へと送り込む。失われゆく記憶、未だ知ることのない過去。それが彼の実体であり、彼自身にも理解できない。

    ある日、彼は透明な壁にぶつかる。壁の向こう側には、同じく時の逆行を生きる彼女がいた。彼と彼女の目は交差し、言葉は通じなかった。互いの世界が交錯するなかで、彼らは触れ合うことなく通じ合う。言葉を失った感情が流れる瞬間、彼らは同時に涙を流す。

    彼の涙は時を遡り、彼女へと届けられた。反対に彼女の涙は未来へ流れ、彼の心を潤す。この逆流する涙は時の神秘、悲しみと喜びの交錯に他ならない。愛か、それとも孤独の別名か。彼らには誰にも分からない。

    日が沈み、星が昇り、彼と彼女は一歩も動かずに世界を旅する。時間の河を漂うごとに、彼らの記憶は薄れ、感情は深まる。壁の存在意義は忘れ去られ、存在自体が疑わしいものとなる。彼らは互いの存在を確かめようとするが、確かめるよりも早く忘れてしまう。

    結局、彼と彼女は壁を超えることはない。彼の時間は彼女の時間と同期することもなく、彼らの涙は永遠に交差する。存在の意味を問う余地もなく、彼らはただ時の海を漂う。愛とは何か、孤独とは何か、それらの答えを得る前に、彼らの時間は逆さまの河を下り、静かに消えていく。

    時は涙を流さなかったが、彼と彼女は流した。泣いたその涙が時間を形作り、二人の間の空虚な壁を湿らせていく。そして、遠く離れた誰かが、その涙を拾い、新たな物語を紡ぐだろう。知られざる涙の物語、終わりなく続く物語。

  • 時間の裂け目

    オロは、時間の裂け目に立っていた。彼には世界が二つ見えた。ひとつは彼の居た世界、もうひとつは彼がこれから行くべきだと知らされた世界だ。両世界は彼の視界で交差し、彼の耳には両世界の声が同時に届いた。時間は流れず、彼はその交差点に固定されているかのようだった。

    「どちらを選ぶの?」と、風が彼に尋ねた。また、風は過去と未来の絡み合う時の声にも聞こえた。

    オロは答えなかった。彼にはすでに答えがあったかもしれないし、あるいはどちらの世界も同じように本当であり、同じように虚構であることを彼は感じていたのかもしれない。

    時はずれる瞬間、彼の両脇で世界の色が変わり始めた。彼の居た世界の青と緑が徐々に淡くなり、彼が行くべきだと知らされた世界の色—火のような赤や深い紫—が強くなっていった。オロは二つの世界を同時に見つめながら、ほんのわずかに微笑んだ。

    その瞬間、時間の裂け目がさらに広がり、オロは彼が選ばなかった世界の片鱗を感じ取った。それは彼の心に静かで痛々しい音楽を奏でるようで、彼の記憶の一部を奪うようでもあった。しかし、その世界からの誘いは彼を縛り付けるほど強力ではなかった。

    彼は静かに足を踏み出し、一つの世界を選んだ。それがどちらの世界であったのか、彼自身にもわかっていないのかもしれない。彼の選択を、彼の意識さえもが探し出し切れないのだろう。彼の存在がどちらの世界にも足跡を残していないかのように。

    彼が歩き始めた時、時間は再び流れ出し、周囲の景色が彼に合わせて動き出した。だが、オロがどちらの世界を歩いているのかは誰にも理解できない。それは彼だけの秘密であり、彼がこの瞬間を抱えてどこまでも行くだろう。

    やがてオロは立ち止まり、振り返った。彼の後ろにはもう時間の裂け目はなく、ただ一つの道が続いていた。彼はその道を見つめながら、何かを待つかのように静止した。時の声はもう聞こえない。風も、彼の選択を告げることなくただ吹き抜けていった。

    彼は再び微笑み、自分がどこであるかを知るための答えを探してはいなかった。オロという存在は、ただ彼自身の内に存在し、時間の裂け目で見た二つの世界の間を自由に漂っているのだ。

  • 風が記憶を纏う時

    地球の上で、風は古い時代から運んできた記憶の粒子をまとい、街を漂っていた。見えない、触れられない、けれど確かに存在するこれらの粒子は、人々には感じ取れないが、風自体は自らの存在理由をよく知っている。風は、あるずっと昔から、散亡した感情や忘れ去られた言葉、過去の瞬間を世界中に運ぶ役割を担ってきた。

    風は一つの公園を好んで訪れる。その場所で、風はしばしば静かに滞在し、一人の老婆がそこにやって来るのを待つ。彼女は長い時間をその場に座り、じっと空を見上げる。彼女の目には見えないが、風は彼女の周りを優しく撫で、かつて彼女が愛した人々の記憶を彼女に微かに感じさせる。

    特に春の終わりごろ、風はこの老婆が若かったころの恋人の声を運ぶ。その声は、言葉ではなく、ただの感情の波紋として彼女の心に触れる。老婆はそれが何であるかを理解できないが、心地よい憂鬱と淡い喜びを感じる。彼女は微笑みながらも時折涙を流す。風は彼女の涙を新たな記憶として吸収し、さらに遠くへと運んで行く。

    時間の概念が人間とは異なる風にとって、過去も未来も同時に存在する。風はかつて彼女が若かった公園の同じ場所を走り抜け、その時も彼女の側に同じように滞在していた。それは時空を超えた逢瀬であり、風にとっては連続した瞬間である。

    この日、風は異なる何かを運んできた。それは形のない、新しい記憶の欠片であり、風自身もその起源を知らない。老婆の目の前で、風はそれを解き放つ。空気は微かに震え、時間が一瞬、歪むような感覚が公園を包む。老婆は首を傾げるものの、何も見えない空間を手で探る。彼女は何かを感じ取ろうとしているが、その試みは無駄に終わる。

    風は再び動き出す。記憶を紡ぎ、時間の縫い目を旅する。老婆の存在は、やがて風にとっても過去の一部となり、その記憶の粒子はまた新たな風に乗ってどこかへと運ばれていくだろう。そして風は、未来にも過去にも向かって、ただひたすらに存在を繰り返す。

    老婆は公園を後にする。風は彼女の背中を静かに押し、彼女の歩みを見守りながら、またどこか新しい場所へと流れていく。記憶とともに。