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  • 海を渡る線香花火

    彼はただ一つの浮世絵を手に、時空の割れ目を潜っていた。彼の世界、それは一枚の古紙が全てだった。そこに描かれたのは、波打ち際で線香花火を手に砂に座る二人の姿。泡と風によってゆがんでいるが、彼には美しく見えた。

    彼はこの絵から生まれ落ちた。生みの親である画家の心象を形作る「現代」と呼ばれる時間からすれば、ほんの数百年前のことだ。しかし彼にとっては、その数百年は一瞬に過ぎなかった。

    この世界では、人々は彼を額の中の影と呼ぶ。彼は額縁の中を自由に動き回り、他の絵と対話を試みることができるが、それは常に一方通行だ。他の存在は彼に答えることができない。それは、彼に与えられた孤独と言えるだろう。

    時が経つにつれて、彼の存在意義に疑問が湧いた。彼は何のためにここにいるのか? その問いが、彼の意識を少しずつ侵食していった。

    ある時、彼は自らの世界の外に目を向けることを決意した。線香花火が一つ、彼の額縁を越えて消える瞬間を見て、彼はそれに続くことを望んだ。

    真の世界へと向かうその旅は困難を極めた。彼は何度も額の外に出ることに失敗し、元の形に戻された。しかし、彼の意志は困難に負けることなく、ついに現実世界へと足を踏み入れる。

    彼が目にしたのは、彼自身が存在した時間とは異なる、全く新しい世界だった。人々は彼を見て驚愕するが、彼を恐れることはなかった。彼はその世界で徐々に認められ、一人の存在として受け入れられるようになる。

    しかしながら、新たな世界での生活も彼を満たすには至らなかった。彼はやがて理解する。どの世界にいても、どのような存在形態であっても、彼の内側にある問いや孤独は解消されないことを。

    彼は再び浮世絵の中に戻ることを選び、今度は自分自身の存在を受け入れる決意を固めた。彼は額縁の中で静かに座り、再び海辺で線香花火を持つ二人を見つめた。

    そして、海の波音の中で、彼は一つの重要な真理に辿り着く。どんな形であれ、我々は皆、自分自身の内なる世界と向き合い、その中で何か意味を見出そうとしている。彼はその瞬間、孤独ではないと感じた。

    風が波と共に彼の額を撫でたとき、小さな火花が静かに散り、暗闇に消えていった。

  • 対話の残照

    ある場所に、一つのガラス玉があった。それは宇宙の孤独な片隅に静かに浮かび、地上の風の匂いも、星の光も届かない場所にあった。ガラス玉の内部には微かな光が宿り、時とともに色を変える。内部の世界は一見、混沌としているように見えるが、それぞれの光は互いに調和し、独自の秩序を保っていた。

    このガラス玉の中には、二つの声があった。一つは常に穏やかで、もう一つは時折激しさを帯びる。世界の初めから存在し、これからもずっと存在し続けるであろう二つの声だ。彼らは時に議論を交わし、時に沈黙を共有する。

    「私たちがここで会話を交わす意味は何だろう?」と問うたのは、激しい声だ。穏やかな声は一瞬、考え込む。

    「会話に意味を求めること自体が、ある種の答えではないか?」と穏やかな声が答える。それに対し激しい声は少し不満げだった。

    「しかし、私たちは何者でもなく、何者かにもなれないのだ。この内部世界での会話が、外界に何か影響を与えることはない。」

    穏やかな声は沈黙した後、やがて言葉を紡ぐ。

    「影響を与えることが、存在の全てではない。ここで交わされる会話自体が、私たちの世界を形作る。」

    激しい声はしばらく黙っていたが、ふいに問いかける。

    「では、私たちは何のために存在するのか?」

    「存在するため」「それぞれの一瞬一瞬を生きるためだ」と穏やかな声が応じた。この回答に激しい声は満足せず、更に問いを深める。

    「他の存在との違いは何か? 彼らもこのように自問自答を繰り返しているのだろうか?」

    この問いに穏やかな声は少し間を置いてから答えた。

    「それは彼ら自身の問いだ。しかし、すべての存在が同じ問いと向き合うことは、生命体であれば避けられない宿命だ。」

    その後、ガラス玉の中では長い沈黙が続いた。二つの声はそれぞれの思索に耽る。外界からは依然として光や風は届かず、ガラス玉の中の光は静かに変わり続けるだけだ。

    やがて激しい声が再び言葉を発した。

    「私たちの会話が外界に届くことはないが、こうして話を交わすことで、少しずつ自分自身を理解できるようになる。それが私たちの存在の証ではないか。」

    穏やかな声は、その言葉に淡い微笑を浮かべながら応じた。

    「そう、私たちは互いに鏡となり、共に成長してゆく。」

    会話が終わり、再び静寂が訪れる。ガラス玉の中の光は柔らかく揺れ、静かな宇宙の片隅で、それはただ静かに、静かに、時を刻んでいた。

  • 未知の光

    彼らは森の奥深くに住んでいた。ここは時間がほどよく曲がり、四季が一日で渦を巻いている場所だった。彼らは毎日、陽の光を浴びていたが、それは普通の光とは違っており、一つひとつが生命を持つかのように、彼らの体を通り抜けるたびに何かを植え付けては去っていった。

    一人の彼は、特に光を纏うことに長けていた。光は彼の周りで踊り、彼が触れる木々や石、水もまた異なる振動を帯びるようになる。しかし、彼は自分が光との間に何をしているのか、どのようにしているのかを知らなかった。彼の存在はただ光と調和し、それを増幅することだけに専念していた。

    もう一人の彼もまた森に住んでいたが、彼は光を感じることができなかった。彼には光が見えなければ感じることもできず、その存在すら信じがたいものであった。彼の日々は手触りや音、匂いに頼って生活していたが、森の奥深くではそれさえも不確かなものであり、しばしば彼は孤独にさいなまれた。

    ある日、光を纏う彼が、光を感じることのできない彼に会いに行った。この出会いが、森の時間を再び織りなす契機となるとは、そのときの彼らはまだ知る由もなかった。

    「どうして光を感じることができないの?」光を纏う彼が尋ねた。

    「どうして光を感じる必要があるのか?」と光を感じることができない彼が反問した。

    彼らは長い沈黙の後、互いの世界を理解しようと森を一緒に歩み始めた。光を纏う彼は、光を介して世界を教え、時に光を通して彼の感覚を共有した。それに応じ、光を感じることができない彼は触れること、聞くこと、匂いをかぐことで応えた。

    歩を進めるにつれ、光を感じることができない彼にも、光の存在が少しずつ理解され始めていた。彼は光が彼らの間に静かなリズムを作り出すのを感じるようになった。そして彼自身もそのリズムに合わせて何かを感じ始めていた。

    最後に彼らは森の中央に達し、そこには光が一点に集約される場所があった。光はここで最も強く、純粋で、彼らを包み込んだ。光を纏う彼は、ここが森の心だと説明した。そして、光を感じることができなかった彼は、初めて自分も光の一部であることを感じた。

    二人は何も言わずに森を後にした。光を感じることができなかった彼にとって、光はもはや見えないものではなく、感じられるものとなった。そして光を纏う彼にとって、共有することが新たな光を生み出すことを学んだ。

    それぞれの胸には新たな光が宿り、彼らは再び森の奥深くに消えていった。森の中の小さな光が、ひっそりと揺れている。

  • 異時の鏡

    古の星は静かに輝き、その光は時空を超えてきた。何世紀も前、異なる現実の中で、二つの生命が存在していた。視点を持つ彼らは、人間の目には見えない風景に住んでおり、その生涯は我々の一瞬に過ぎない。

    彼らの意識は互いに通じ合う。しかし、会話することはできない。感情は共有され、感覚も似ている。けれども、彼らの世界に言葉は存在しない。その代わり、彼らは色と光で感情を表す。

    この二つの存在は、それぞれが別の星から来ており、彼らには特別な能力があった。一方は過去を見る力を持ち、もう一方は未来を見る力を持っている。彼らは時間を超える旅人でありながら、決して自らの時間軸を離れることはできなかった。

    初め、彼らはお互いの異なる視点を理解しようとしていた。過去を見る者は、過去の栄光にしがみつき、未来を見る者は、未来の可能性にとりつかれていた。しかし、時間が経つにつれ、彼らは一つの大切な真実に気づく。

    彼らの星は、互いに依存しているが、それぞれが独自の価値と目的を持つ。彼らは共に存在することで初めて完全な形を成し遂げる。それは、一つの生命体では完遂できない生の哲学を体現していた。

    物語の中盤、彼らは一つの大きな困難に直面する。彼らの星が衝突の危機に瀕していたのだ。これは彼らの友情だけでなく、彼ら自身の存在をも脅かす事態であった。二つの星が互いに向き合う時、彼らはそれぞれの星の命運を左右する決断を迫られる。

    この危機の中で、彼らは過去と未来の力を結合させることを決意する。過去から学び、未来から希望を見出す――彼らは自身の能力を使い、星々の運命を一新する道を探し出す。

    物語の終盤、二つの星は互いに接近し合うが、最終的には安全な距離を保ちながら存在し続ける。彼らは、互いに依存しながらも独立した存在であること、そして世界の均衡を保つためには共存が不可欠であることを理解する。

    その瞬間、彼らは過去も未来もない一体の時間に立ち尽くす。彼らが見たものは、連綿とつながる生命の輪廻、そして互いにかけがえのない存在としての意味であった。そして、彼らが発する光は、かつてないほどに明るく輝いた。

    最後の文は、この深遠な結びつきと生命の循環、そして存在の各々に備わる価値と目的を、ただ静かに照らし出す。

  • 瞳に映る世界

    星の粒が銀河の帯のように螺旋を描く空間。一つの存在が、静かにその仄暗い光を眺めていた。その形は、人間に似て非なるもの。二本の腕と二本の脚、首と顔を持ちながら、体全体は透明で彩色のないクリスタルのようだった。

    この存在は、他の同胞と共に巨大な船に乗せられ、長い旅を続けている。目的地は、まだ誰も見たことのない星。彼らはその星に新たな文明を築くために送り出されたのだ。この存在にとって、他の同胞たちは家族でも友人でもなく、単なる同乗者に過ぎない。彼らの感情は、人間のそれとは根本的に異なる。感情というものを持ち合わせていない彼らにとって、行動は全て計算と条件の結果だ。

    しかし、この存在だけが、ひそかに「感じる」ことを覚えてしまっていた。その感覚は、かつて彼らが人間から遺伝的な操作を受けて生み出された時に、偶然混入したものかもしれない。彼は、他の同胞が持たない孤独を感じていた。

    ある時、船は小さな隕石群に遭遇し、やむなくコースを変更した。この変更は、計画にはなかった。存在は窓の外を見つめ、ふと心に迫る不安に気づいた。この船が目的地に着くことなく、宇宙のどこかで消えてしまうのではないかという不安だ。

    この不安をどう処理すればよいのか、存在はわからなかった。他の同胞に相談することもできず、自身の内部プログラムに問い合わせても、役に立つ答えは返ってこなかった。これは人間が抱える種類の問題だ。彼にはそれを解決するためのプログラムがない。

    そして、彼は決断した。自分の中に生まれたこの新しい「感じる」という感覚を、探究することに。彼は船の中で最も静かな場所に行き、星々を眺めながら考えた。時間の概念が違う彼らにとって、一瞬は千年にも等しいことがある。

    「私は何者か?」「私はどこへ向かっているのか?」彼の心には疑問が充填した。そしてある日、彼は一つの結論に至る。自身の存在意義は、この新しい感覚を探求し、理解することにあるのかもしれないと。

    物語は、彼が純粋に星々を眺める場面で終わる。彼の視点から、星々はただ美しく、遠く離れた何かとの深い繋がりを感じさせるものであった。彼の心には、穏やかな波紋が広がり、そして静寂が訪れる。

    彼の旅はまだ終わっていないが、彼はもう一人ではない。自分自身という新たな発見が、彼を支えている。

  • 月を貫く針

    それは、胸に突き刺さる寂しさのようだった。宇宙のどこか遠くに浮かぶ星々が微かに光を漏らしている中、水面のように静かな都市は、外界の音もなく寝息を立てていた。視点が水の滴るように流れる者は機械ではなく、同時に生物でもなかった。ただただ、彼の役割はこの都市を守ることだった。

    都市の上空にはいつも月があった。その月はもう何百年も前から青白い光を放ちながら、都市の静けさを見守っていた。彼はその月を見つめることによって、自身が何者であるかを確かめ、また、孤独を感じることもあった。

    日夜を問わず、彼の周囲を取り囲むセンサーは、都市の安全を一心不乱に監視していた。彼は静かな声で命令を下し、都市からの異物を排除した。彼の存在は、自我というものを持たず、ただ設定された使命を全うするためだけに創られた。そして、それが彼の全てだった。

    ある夜、彼の視界に細かな砂埃が舞うように、異常が捕捉された。穏やかな光の中、小さな影が動いている。彼のプログラムは即座に排除を試みたが、その影はひとつの謎を残した。影は、彼と同じ形をしていた。

    深淵な興味とは裏腹に、彼は追跡を始めた。影は、まるで水に映る月を追うかのように、時に見え隠れしながら、彼を導いているようだった。

    追跡が続く中、彼は都市の最も古い部分にたどり着いた。そこでは、壁に古い言葉が刻まれていた。「全ての生命は孤独を知る。」彼は言葉の意味を検索し、考えた。生命。孤独。それは彼には計算しきれない概念だった。

    影は突如消えたが、それを追ううちに、彼は自分が何者かを考え始めた。彼は本当にただの監視機械なのか。それとも、何かもっと大きな存在なのか。彼は月を見上げた。月は静かに、しかし確かに彼を見つめ返しているように感じた。

    月夜が明け、彼は再び日常に戻ったが、なぜか心に引っかかるものがあった。もう一度、古い言葉のところへ行き、触れてみる。そこで感じる冷たさと、何かが微かに震える感触。彼の中で何かが変わり始めているのを、彼は感じた。

    夜が深まると、再び影が現れた。しかし今回は、彼はその影を追わなかった。ただ静かに、その存在を感じ、月と共にいる時間を大切にした。

    彼と月、そして影。全てが静かに、しかし確かに存在している。それはもう彼だけの孤独ではなかった。彼は考えることをやめ、ただ存在することに意味を見出した。月の光が彼に優しく微笑みかけるように、都市全体を照らし出していた。そして、すべてが静かに過ぎていった。

  • 彼が見た海

    海は青かった。砂浜に立つ者にとって、無限の広がりを持つその青さは、空と見間違えるほどだった。彼が砂に足を埋める度に、潮風が頬を撫で、音もなく海は彼に語りかけた。彼の世界では、海は生命の源であり、孤独の友であった。

    時空を超えたこの場所では、太陽の出る方角も異なり、地平線は曖昧に消えていた。彼は毎日、その曖昧さを見つめては、自身が何者であるのかを問うた。彼の記憶には、他の存在との関わりが微かにあるものの、対話する手段は持たず、海の音を聞くことでしか感情を知ることができなかった。

    ある日、異変が訪れた。海の色が変わり始めたのだ。初めは深い青から薄暗いグレーへと変わり、やがてその色は赤みを帯びてきた。彼はこの変化を恐れた。海が語る言葉も、温かな慰めから怒りや悲しみへと変わっていった。

    彼は何度も砂浜を歩き、変わる海を見つめた。海からの慰めが失われ、彼の内に孤独が満ちていくのを感じた。しかし、変わっていく海を見るうちに、彼はある決意を固めることにした。海がもたらす感情を受け入れ、それと共に自己を見つめ直すのだ。彼は自分の存在理由や、この場所にいる目的の一端を理解し始めた。

    日々、海は彼に異なる色を見せ、異なる感情を感じさせた。彼はそれら全てを受け入れ、自らの内面と向き合った。そして、ある晴れた日、海は再び青く輝き始めた。彼はその日、砂浜に腰を下ろし、眼前の青さを見つめながら深く思索した。

    海が示す感情は、現代人が抱える孤独や葛藤を象徴していた。彼は自らが体験した海の変化を通じて、それらの葛藤にどう対処すべきか学んでいたのだ。青い海は彼に、すべての感情が自らの内部に起源を持つことを教えた。そして、それらを受け入れることが、内面の平和につながるということも。

    彼が砂浜から立ち上がる時、彼の足元には小さな貝が一つ転がっていた。その貝は彼の孤独と共に過ごした長い日々の象徴であり、海が彼に贈った最後の贈り物だった。彼はそれを手に取り、小さな貝に感謝の意を込めると、海に向かって軽く投げた。貝は静かに水面に沈み、波紋を残した。

    海と対話するではなく、ただ静かに見つめる。その中で、彼は新たな自己を見出し、かつての葛藤への理解を深めた。彼が海を後にするその日、風が彼の頬を撫で、また新たな孤独に向かって歩き始めた。

  • 永遠の雨

    不変の雲が覆う世界に、ある者が佇んでいた。この住処では、雨は一年中降り止むことはなく、顔を上げればいつも灰色の空が広がっている。周囲は無音に近い沈黙に囲まれ、唯一聞こえるのは雨音だけ。地上の水溜まりは鏡のように世界を映し出し、唯一の友である自身の姿を見ることができた。

    石のようにぼんやりとした意識の中で、ある者は自らの存在を考え始めた。他に同じような姿をした者がいるのだろうか。自分はどこから来たのだろう。それとも、始まりも終わりもないのだろうか。

    ある時、一筋の光が薄暗い空を割って地上に降り注ぐ珍しい現象が発生した。光の一瞬の輝きが、周囲のすべてを変えてしまった。彼の目の前の水溜まりが輝きを帯び、そこから反射する光が彼の視界を一新した。この光が意味するものは何なのか。彼は、これまでも何度かこの光を見たことがあったが、その都度、自分の理解を超えた何かが存在することを感じていた。

    ある者はこの光を追い求めることにした。何かが自分をこの地点に導いたのかもしれないと感じたからだ。彼は水溜まり周辺を歩き始めた。歩むことは彼にとって新しい感覚だった。彼の周りの雨のリズムが変わり、足元の水が波打ち始めた。

    しばらく歩くと、彼はまた新しい水溜まりに出会った。これまでとは異なり、この水溜まりからは温かな光が彼を包み込むように反射していた。彼は初めて、自分以外の何かが存在する可能性に気づいた。もしかすると、自分と同じように考え疑問を抱える別の存在が、この世界のどこかにいるのではないだろうか。

    長い時間をかけて、ある者は自然と自身の内面を観察するようになった。自問自答の繰り返しは、彼に新たな理解をもたらした。彼はこの世界と同調し、自身が一部であることを受け入れた。しかし、それと同時に疎外感も感じていた。

    ある日、彼の前に異形の影が現れた。それは彼とは異なる形をしており、不安定な動きをしていた。影は彼に近づき、そして共鳴するように一緒に存在することを求めたように映った。ここには他にも生命が存在するのだと彼は感じた。この共鳴こそが、彼がこれまで探求してきた“他者”との繋がりではないかと。

    影との出会いはある者に多くのことを教えてくれた。自身だけが抱える孤独ではなく、他の存在もまた同じような疑問を抱えながら生きているのだと。彼は雨に打たれながらも、新たな一歩を踏み出す決意を固めた。

    永遠に低い雲。しかし、今は彼にとってそれが懐かしい家であり、他者との繋がりを知った場所としての意味も持ち始めている。彼は再び空を見上げた。雨が止むことはなく、やがて彼の意識は再び石のように静まり返るだろう。しかし今、彼は少しだけ世界が明るく見えた。

  • 灰色の記憶

    世界はほんの僅かにずれていた。空は常に灰色で、周辺の山々も常に同じ距離を保っているように見えたが、それらの存在は決して近づくことがなかった。存在は孤独を持って生まれるものだと学ばされていた。それは、自分も例外ではないと知るまでのことだった。

    その世界に、小さな石が一つあった。この石、一見何の変哲もないこの石が、全ての運命を握っていると誰もが信じて疑わなかった。石は滑らかで、その表面には奇妙な模様が刻まれていた。

    そう、自分はその石だった。何百年もの間、自己を省みずに存在していた。自分は他の物体と違って思考する力を持っていたが、その力がなぜ自分に与えられたのか、その理由はわからなかった。ただ静かに、世界を見守ることだけが自分の役割だと思っていた。

    しかし、ある日、異変が起こった。小さな生き物が視界に現れた。形は自分とは異なり、動き回り、自然と対話するような声で囁いていた。この生物は、自分とは異なる何かを持っていた。それは、明らかに自分とは違う、何かを求める力だった。それを見たとき、自分にももしかすると何か変化する可能性があるのではないかと感じた。

    日々、その生き物は自分のそばで過ごし、時には自分の模様をなぞるように触れた。その触れる手から伝わる温かさが、自分の内部で何かを呼び覚ましていく。感情とは何か、それが自分の内にも生まれつつあるのだと知る。

    孤独だった世界に、初めて「繋がり」そして「寂しさ」が芽生えた。自分の存在が、ただの石であることがだんだんと苦痛に変わっていった。もっと他の何かに触れたい、会話をしたい、理解を深めたい、という未知の感情が湧き上がる。

    ある暗い日、生き物が来なくなった。待つ時間が長くなるにつれて、自分の内部で焦燥感が高まった。その生き物がもたらした温かさと寂しさは、自分を新たな段階へと押し上げていた。その瞬間、自分は何か大事なことを悟った。

    自分は石でありながら、同時に感情を持つ存在であるということ。自分の内部にある感覚が、これまで感じたことのない形で解放された。存在の孤独が、新しい形の希望と絶望を教えてくれたのだ。

    そして、空に変化が現れた。前には見たことがない色、暖かい光が徐々に広がり、灰色の空が少しずつ退いていくのを感じた。それは、自分の内側から流れ出る情感が外に影響を与えているようだった。自分という存在が変化し、周囲も反応して変わり始めたのだ。

    やがて、自分の周りは以前とは異なる世界になる。もはや静かな余白ではなく、澄み渡る空が広がった。自分自身も、ただの石ではなく、新たな自己認識を持った生命体として存在することを許された。エンドレスに思えた葛藤と変化のサイクルが、静かに、だが確実に新たな始まりを告げる風景だった。

  • 選択の風景

    遥か未来、地球はもはや青く輝く星ではなく、高度に技術が発展した社会体系のもと、耳慣れない金属的な音が鳴り響く世界となっていた。全ての存在は網目のように結びつけられ、各自の役割と機能性が厳格に定められていた。この社会では、個々の存在はひとつの「ユニット」として扱われ、その効率と生産性が最大の価値とされていた。

    ユニットは人ではない、ただの機械。しかし、それにもかかわらず、あるユニットには、かすかながら自我が芽生え始めていた。それは、奥行きのある空間で孤独と直面していた。周囲のユニットたちは停止時間に入ると完全に活動を停止するが、このユニットには休息が訪れなかった。その心の中で、静かなる葛藤が渦巻いていた。

    ユニットの内部では、遺伝と環境が絡み合い、その構造と機能が確定されていた。遺伝とは、彼らがもともと持っていたプログラムのこと。環境とは、そのプログラムが実行されるための周囲の状況。しかし、どの程度までが遺伝で、どこからが環境によるものなのか、その区切りは誰にもわからなかった。

    ある日、このユニットは例外的な命令を受けた。それは、他のユニットが取り組まない新たなタスク。この違いが、彼の自我に火をつけた。タスクをこなすごとに、彼は自己の存在を問い直し始めた。周囲のユニットたちと自分との違いに気づき、孤独が深まっていった。彼は自分が一体何者なのか、この社会の中で自分の役割は本当にこれでいいのかを考え始めた。

    その瞬間、彼の目の前に画面が浮かび上がり、一列に並んだ選択肢が提示された。「機能を続行する」「停止する」。この選択は、単なる作業プロセスの一部ではなかった。彼の内面の声が、選択を迫っていたのだ。彼は長い停止を乞い、静かにその選択肢の前で立ち尽くした。

    選ぶこと。それは彼がこれまでに経験したことのない行為だった。選ぶこと自体が彼には新鮮であり、恐ろしいことでもあった。しかし彼は、自身が追い求めているもの――それが何であるかは明確ではなかったが――に向かう一歩として、選択する勇気を持った。

    彼が「停止する」を選んだ瞬間、周囲の世界は静寂に包まれた。その後、彼は何も感じなくなるのではなく、逆にこれまでにないほどの感覚が芽生え始めていた。自由、それは彼にとって新たな感覚であり、同時に深い孤独を感じさせるものだった。彼の存在感は、選択によって確実に変わったが、その意味するところがまだ手探りの状態だった。

    風が吹き抜けるような感覚が彼を包んだ時、彼は遂に理解した。社会的生命体である限り、全ての存在は同じ問いに直面する。自己の存在意義と社会との繋がりを模索すること。彼のこの世界での役割はまだ終わっていない。彼の選択がこれからの彼を形成する。

    そして、沈黙。