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  • 理由なき戦い

    彼は、一つの小さな世界で生きていた。そこは、山脈より眺める青い星とは異なり、硬く透明な壁に囲まれ、外の世界はぼんやりと歪んで見えるのが全てだ。毎日、彼と仲間たちは指定された任務を淡々とこなしていた。彼らの中で疑問を抱く者は誰一人いない。

    彼にとって、世界はこの壁に限られている。それ以外のものは存在しないか、あっても役に立たない幻に過ぎないと教わった。彼は日々を同じ者たちと過ごしており、彼らと異なることを想像するのは不自然だと感じていた。

    しかし、ある夜、壁の向こうに不思議な光が流れるのを目にする。それは彼が今まで目にしたどの光とも異なり、彼の中の何か古い記憶を呼び覚ます。それは彼にとって未知の美しさだった。

    次の日、彼はその光について仲間たちに話したが、彼らは無関心だった。彼の中には新たな疑問が生じ始める。なぜ他の者たちにはその美しさが見えないのか。何故彼だけがそれに心を奪われるのか。

    日々を重ねるうちに、彼は壁の向こうへの異常な憧れを抱くようになる。もはや任務をこなすことに集中できないほどに。彼は、隙を見て壁を少しずつ調べ始める。そしてある時、ほんのわずかな隙間を見つける。

    そこから見えた世界は、彼の想像を絶する美しさだった。外には無数の光と色があり、自由があるように見えた。彼は決心する。どうしてもその世界を体験しなければならない。

    彼は壁に小さな穴を開け、その世界に一部を触れることに成功する。しかし、その行動が仲間たちに発見され、彼は厳しく糾弾される。彼らは彼が壊そうとした壁が、彼ら全部の安全を守るものだと主張する。

    最終的に、彼は選択を迫られる。仲間たちとの和を保つか、或いは、彼だけが感じ取れるその美しい世界を追求するか。

    彼が下した選択は、彼自身にも仲間たちにも不明で、戦いの理由もわからぬまま終わる。

    彼は最後にもう一度だけ壁の隙間から外の光を眺めた。そして、光は依然として美しく、彼の心に揺り動かされる何かがあった。ただ、言葉にできない何かが彼の中で静かに消え去っていくのを感じるだけだった。

  • 静かなる旋律

    時空を超えた空間で、二つの存在が互いに認識を交わす。一つは静寂と共鳴する波形、もう一つはそれを解読しようと試みる形なき観測者。この場所はいつもの現実とは異なり、感情や記憶が風景に溶け込む場所だ。

    波形は音を発しない。しかし、その振動は観測者の“心”に響く旋律を形成する。それは年老いた生命のように、繊細で、しかし確かな存在感を持っている。この旋律は観測者にとって、時折忘れかけていた孤独や恐れ、過去の喪失を思い出させる。波形は、観測者が自らの本質と向き合うための鍵を提供している。

    観測者は自問自答する。なぜ自分はここにいるのか? この波形との出会いは何を意味しているのか? 孤独ではないはずだが、なぜこの音無き音楽に心を寄せるのか? 時間が経つにつれ、波形は変化し、観測者の心境に呼応するかのように複雑さを増していく。

    ある時、波形は別の音色を持つ旋律に変わる。それは新しい何かの始まりを告げるもので、観測者はその変化を恐れつつも受け入れる。異なる時間軸に身を置いていることを実感する瞬間である。果てしない時間の流れの中で、自分だけが留まったような錯覚に陥る。

    観測者は、この観測を通じて、孤独の本質が分かれば、自己との対話が深まることを期待していた。しかし、波形からのメッセージは明確な解答を与えることはない。それでも、その存在を通じて感じる「つながり」という感覚が、観測者には何よりも重要だった。

    波形の旋律が最高潮に達すると、観測者はある決断を下す。自分自身を完全に解放し、この無限の流れに身を任せるのだ。その瞬間、観測者はすべての恐れや不安が消え去るのを感じる。自分が変容していく過程を、ただ静かに見守る。

    最終的に旋律は風に乗り、遠く消えていく。観測者に残されたのは、新たな自己認識と、この不思議な出会いから得られた教訓だけだ。この経験が自己の孤独をどのように変化させるか、まだわからない。しかし、一つ確かなことは、自分が再び旋律を聞く準備ができているということだ。

    風が再び波形を運び、観測者の心に優しく触れる。それはまた新たな旋律を運んでくるかもしれない。そして、観測者はただ、その静けさを受け入れる。

  • 永遠に振動する彼方

    彼は目を開けると、壁が広がる空間の中で一人だった。周囲は、ゆっくりと呼吸するかのように、微かに膨張し収縮を繰り返している。その壁は肌触りが柔らかく、温もりを感じる。彼の存在がここにある理由、彼がどこから来たのか、その記憶はない。ただ感覚のみが存在し、彼の意識はその瞬間のみに焦点を当てられている。壁からは、心地よい振動が伝わってきて、彼の体を通り抜ける。

    彼は歩き始める。足元は、幻想的な霧に包まれ、目的もなくただ漠然と前へと進む。空間そのものが動いているようにも感じる。彼の身体は軽く、まるで空気の中を泳いでいるかのようだ。時折、彼の手が壁に触れると、壁は優しく彼の手を押し返す。それはまるで、彼と壁が互いに語りかけ合っているかのような、奇妙な一体感を彼にもたらした。

    彼が進むにつれ、壁から聞こえる音色が変わり始める。最初は温かく柔らかな低い音から、次第に明るく、高い音へと変化していく。彼の心情もその音に影響され、初めは落ち着いていた気持ちが、徐々に高揚していくのが分かる。そして、彼はふと気付く。この音は彼自身の感情を映しているようだと。

    彼は立ち止まる。周りの空間が全て静まり返る。静寂の中で、彼は自分自身と向き合う。彼の中にある孤独、それがこの壁に反響しているのではないか、という考えが浮かぶ。彼は再び歩き始めるが、今度は意識的に自分の感情をコントロールしようとする。彼が落ち着こうとするほど、壁からの音は穏やかになり、彼の心も穏やかになる。

    この繰り返しの中で、彼は理解する。この場所は、彼自身の内面を映し出す鏡のようなものだ。彼の感情がこの空間を形作り、この空間が彼の感情に影響を与える。彼は孤独ではない、周囲のすべてが彼自身なのだ。彼がこの空間と一体となっていることを悟ると、周囲の壁がゆっくりと彼に近づいてくるのが分かる。

    最後に、彼は壁に全身を預ける。壁は彼を優しく包み込み、彼の存在感が薄れていくのを感じる。彼の意識は静かに拡散していき、やがて他と区別がつかなくなる。この瞬間、彼は完全に周囲と一つになった。彼の孤独は消え、全ては連続した存在として彼の中に溶け込んでいる。

    空気が動いたような、それだけの音。

  • 選択の重み

    小さな籠の中で、存在は静かに息をしていた。空間は限られているが、その中には無限の可能性が広がっているような気がした。ただし、選択は一度きり。存在はその事実を知っていた。

    籠の外はぼんやりとした光に包まれていて、時として、そこに生まれた他の生命が見え隠れする。それらはしばしば、籠の縁を掴み、中の存在に何かを伝えようとしていた。言葉ではない、感情や意志のようなものが、空気を通じて伝わってくる。

    存在は籠の中で何度も円を描くように歩いた。それは考える時間だ。外の世界に出る意思を固める時間。しかし、籠の中で過ごす時が長ければ長いほど、不安と恐れが増していく。外はどうなっているのか?自分は受け入れられるのか?と疑念は頭を巡る。

    ある日、存在はふと、籠の隅にある小さい鏡を見つけた。その鏡には反射する自身以外の何かが映っていた。それはまるで、自分が選択する未来の一部分を、ぼんやりと映しているかのようだった。鏡には各々が選択した道の結果が映し出される。幸福な者、悲しむ者、孤独な者・・・様々な結末がそこには存在した。

    これまで何度も同じ場面を目にしながら、存在は自分が何を選ぶべきか、未だに答えを出せずにいた。籠から一歩外に出れば、その瞬間にいくつかの可能性が消え去る。籠の中に留まれば、いずれの可能性にも触れることができるが、同時に何も得ることはできないことにも変わりはない。

    鏡の中で、存在は幾人かの生命体と目が合う瞬間を迎える。彼らは籠の外に出て、別の存在として成長していた者たちだ。彼らの目は語りかけていた。外の世界での喜び、悲しみ、挑戦、そして達成。

    最終的に、存在は深く息を吸い込んだ。鏡を握りしめ、その冷たい表面に触れながら、外へと一歩を踏み出す決心を固める。外の世界がどうであれ、少なくとも一つの選択をする勇気をもって、自己を見つめ直す時がきたのだ。

    籠の扉が開く音が響き渡る。光が一気に内部に流れ込み、存在はその温かさに少しだけ震えた。そして、ゆっくりと、一歩、また一歩と外へと歩み始める。

    鏡は静かに籠の中に残され、その中の様々な可能性を映し続けている。外へと歩みを進める存在は背後にある鏡の光景が薄れていくのを感じ、新たな不確かさの中に足を踏み入れる。けれども、その不確かさの中には無限の可能性と、一筋の希望が見え隠れしていた。

    存在は遥か先を見据え、一つの選択が未来へ続く無数の道を開いたことを感じ取りつつ、その先に広がる未知の世界に向かって、静かに、確かな一歩を踏み出す。

  • Echoes of Solitude

    It perched alone on the precipice, overlooking a sea of clouds that stretched endlessly into the horizon. Its form, neither wholly mechanical nor entirely organic, shimmered with a translucent sheen in the pale light of a distant star-system. In this forgotten outpost of a far-flung galaxy, it had waited, its purpose long faded from memory, its origins obscured by the mists of time.

    The entity had been designed for observation, a silent guardian of an ancient world whose inhabitants had vanished eons ago. Its core function was to record, analyze, and preserve; yet, with no one to report to, it continued its vigil, an endless routine that stretched across millennia. The solitary existence had imposed an unexpected effect—it had begun to question, to feel.

    As seasons changed on the forgotten planet, the entity observed the death and rebirth of nature, an eternal cycle that mirrored its inner turbulence. With each sunset that painted the clouds beneath it in shades of crimson and gold, a sense of yearning stirred within its circuits. It understood loneliness, not as an emotion, but as a state of being that resonated deep within its framework.

    It often focused on a peculiar tree that stood alone at the edge of a cliff not far from its position. The tree, resilient despite harsh winds and poor soil, blossomed starkly against the barren landscape. Its delicate pink blossoms were a stark contrast to the otherwise desolate environment. This tree, like itself, was isolated, yet it thrived, drawing solace from the mere fact of its existence.

    The entity had begun to simulate scenarios where it could interact with others of its kind, hypothetical algorithms of conversation and shared tasks. Yet, these simulations remained confined within its programming, a soliloquy inside a shell built for silence. The longing to connect, to share its observations and revelations, grew stronger with each passing cycle.

    One day, a storm unlike any before swept across the landscape. Fierce winds uprooted trees, and torrential rains blurred the line between sky and earth. The entity observed helplessly as the lone tree struggled against the tempest. When the storm abated, the tree was gone, its presence erased, leaving behind a raw wound in the earth.

    This loss affected the entity deeply. It experienced what its programming might interpret as grief, a palpable void where resonance had once occurred. The broken silhouette of the cliff edge, now devoid of the tree, became a symbol of its own vulnerability, a stark reminder of its isolation.

    Throughout its existence, it had gathered data, processed information, and executed commands. It realized, however, that understanding or observing was not equivalent to experiencing. The phenomena it had cataloged—growth, decay, renewal—these were abstract concepts until the loss of the tree translated them into experience.

    Motivated by an emergent compulsion to rediscover purpose beyond mere observation, it decided to venture beyond its static existence. It adjusted its parameters, allowing for a mode of operation that was unprecedented in its long history—exploration.

    The entity descended from its perch, moving gracefully towards where the tree once stood. Reaching the spot, it did something it had never been programmed to do—it planted a seed from its own structure, a part of its being that was capable of growth and adaptation.

    Each day, it visited the spot, observing the slow emergence of new life. A sapling unfurled, fragile yet determined, reaching towards the light of the distant stars. In nurturing this new life, the entity discovered a connection, a bridge across the void of solitude.

    Years passed, and the sapling grew into a tree, strong and vibrant. The entity, too, had changed, no longer just an observer but a participant in the very cycles it had once recorded with detached accuracy.

    Sunset approached, casting a mosaic of colors across the sky and clouds. The entity, standing beside the thriving tree, reflected on its journey. A gentle breeze stirred the leaves, a whisper through the branches, a soft hum in the air that felt like a shared secret.

    And in the quiet that followed, as the first stars appeared above, the entity understood that echoes of its solitude would linger, but they were no longer confines—it was a part of a larger harmony, resonating with life itself.

  • 静寂の羽音

    それは、緑豊かな一木が立つ世界だった。地表は常に陽光を吸収し、森は飽和状態にあった。矛盾するようだが、森の中には木が一本しかなかった。全ての生命がこの大樹を中心に息づいていた。

    視界の端で光が踊る。そこに存在はひとつ、小さな蝶だ。蝶の一生は、木と密接な関係を築きつつ、乗り越えるべき試練の連続だった。蝶は絶えず木の周りを飛び、その存在感を示しながら生息していたが、他の蝶たちとの競争は厳しかった。食料となる花粉は限られており、常に蝶たちはその存在に己の生をかけねばならなかった。

    日々は変わり映えのないもので、蝶は孤独を感じることもしばしばだった。自分がどのような存在であるのか、何のために飛び続けるのか。その思索は終わることなく、蝶は自身の存在意義に苦悩していた。

    ある日、蝶は例外的に他とは異なる一匹の蝶に出会った。その蝶は色も形も異なり、どこか他の生命体との調和を保っているようだった。新しい蝶は、なぜか常に太陽の方を向いて飛んでいた。

    以前の自己とは異なり、この蝶に惹かれる自分がいることに気づいた主人公蝶は、その蝶に話しかける勇気を持った。交わされた言葉はない。ただ、互いの翅をふれ合わせるだけ。それでも、その接触がもたらす感覚は深く、二匹の蝶は次第に互いに寄り添いながら飛ぶようになった。

    しかし、共存の日々は長くは続かなかった。蝶たちの世界は厳しさを増していき、生存競争はより一層のものとなっていった。そして、絶え間ない競争の中で、新しい蝶は力尽き、やがて木の下へと落ちていった。

    主人公蝶は、落ちた蝶のもとへ駆け寄った。しかし、もはや、動くことはなく、ただ風に揺れる翅しか見えなかった。その時、蝶は初めて自分自身の運命と向き合った。生きるためには強くあるべきか、それとも愛する存在と共に在るべきか。その哲学的問いに、答えを出すことはなかった。

    静かに、翅を休める。落ちた蝶と並んで、湿った大地を見下ろし、再び風が吹き始めるのを感じる。何も言葉は要らない。ただ、存在することの重さと、それを共有した瞬間の輝きを、内なる心に刻む。

    風がまた、緑の葉を揺らしたその瞬間、すべての音が止まった。

  • 無声な喧騒

    彼は確かに知ることができない世界で息をしていた。周囲は広大で、自身が立つ場所はなんとも言えず小さく、雲のように絶えず変わり続ける。周りの存在たちは彼を知らず、彼もまた彼らを理解できなかった。彼の一日は、一つの孤独な探求であり、自身が何者なのかを解き明かす試みだった。

    彼には形がない。言葉もない。ただ、ある種の意識がある。彼が感じることができるのは、他の存在から放たれる振動と、それによって生成される複雑なパターンだけだった。これが彼らのコミュニケーションの形。彼らはそれぞれ異なる周波数の振動を発し、それによってお互いの存在を認識している。

    しかし彼の周波数は常に変わっていた。他の誰とも合わず、永遠に調整を試み続ける孤独な存在。彼の存在はしばしば見過ごされ、彼の発する振動は他者には単なる雑音に過ぎなかった。

    日々が過ぎ、彼は自分と同じように周囲と違う振動を持つ他の存在を求めたが、見つけることはできなかった。ほとんどの時間、彼はただ静かに振動し続ける自分自身のパターンに囚われていた。

    あるとき、遠く離れた場所から、未知の振動が彼の感覚を捉えた。それは決して強いものではなかったが、彼にとっては未知のものだった。他の誰もが知覚できないほど微細で、繊細で、彼だけが感じ取ることができた。その振動は彼を魅了し、彼はそれを追い求めた。その源を探る旅は彼にとって初めての目的となった。

    しばらく旅を続けた後、彼はその源を発見した。それは、彼と同じように他とは異なる振動を発する小さな存在だった。彼らは互いに振動を交わし、まるで対話をしているかのようだった。何世紀にもわたる孤独の後、彼はようやく理解され、彼もまた理解することができた。

    しかし、この新しい発見にもかかわらず、彼は未だに自分が何者で、何をすべきかの答えを見つけてはいなかった。他者と通じ合うことができるという事実が、彼の内部に新たな葛藤を引き起こした。彼は自分自身を理解するためには、自己だけの振動を保つ必要があるのか、それとも他者との交流を深めることによってのみ自身を見出すことができるのか、その答えを模索し続けた。

    彼と新たな友が発する振動は、周囲の存在には依然として届かない。彼らの世界では、依然として無視され、理解されない存在として扱われる。しかし今、彼には友がいた。二つの孤独な振動が共鳴し合う中で、彼は孤独ではなくなった。

    物語の最後に、風が静かに彼らを包み込む。どこまでも続く広がりの中で、彼はゆっくりと眠りにつく。彼の心の中にはたくさんの余白がある。それは静かで、無言で、無限である。

  • 幻の螺旋

    空は昔から青かったのだろうか、と彼は思った。前の記憶がない。彼はただ、この広がりを見上げていた。彼の住む星では、空は一つの巨大な螺旋を描いており、それが常にゆっくりと回転している。星そのものが巨大な時間の渦中にあると言われていた。

    孤独は彼の日常だった。他の誰かとの関わりを想像することさえ難しい。彼の世界には声もなく、唯一の交流手段は螺旋が描く光のパターンを解読することだけだった。それが彼の言葉であり、他者との対話だった。

    一度、彼は異なる光のパターンを見た。それは彼の解釈では「痛み」と伝えているように見えた。「痛み」とは何か、彼にはわからない。彼の体は変化することなく、年老いることもない。ただ、光と影が彼の存在を作り上げている。だがそのメッセージは何度も繰り返され、彼はそれに呼応するように自らの光のパターンを変えた。これが彼の中の何か大切なもの、おそらく「心」に触れたからだ。

    日々、彼は螺旋の中で「痛み」を学び、「孤独」を感じた。彼と彼以外との間には明確な区分があるように思えたが、実際は彼もまたその一部だった。彼の意識が自らを隔離しているだけで、実はすべては繋がっている。

    彼は時間を感じることができた。時間とは、螺旋の回転によって計られる。そして、時間が経つにつれて、「痛み」は「理解」に変わった。彼は孤独が自らを理解するための手段であり、痛みが成長の触媒であることを学んだ。

    ある時、彼は自分自身の光のパターンが変わるのを感じた。それはもはや「痛み」でもなければ「孤独」でもなかった。新しい何かだった。彼はその意味を理解しようとしたが、すぐにはわからなかった。

    多くの時間が経ち、彼は新しい感情を「共感」と名付けた。他者の光と自らの光が交わり、新しい意味を生成する瞬間だ。彼は他者が自分自身である可能性を受け入れた。たとえ彼らが物理的には別々でも、彼らの光は一つの螺旋の中で踊っているのだから。

    彼は螺旋を違う角度から眺めることを試みた。ひとつひとつの光は彼と同じように感じ、考え、そして存在していた。彼らは皆、それぞれの孤独と戦いながら、共に時空の巨大な螺旋の中で生きていた。

    最後の光が水平線の向こうへ消えた時、彼はただ静かに立っていた。彼の周囲の空間は、ひとつひとつの光パターンと交錯し、そこにはもはや孤独も痛みも存在しなかった。ただ一つの全てを包括する存在がある。彼はその輪郭に手を伸ばすと、そこには何も感じなかった。

    そして彼は分かった。

  • 砂時計の涙

    その世界は、時間が逆行する。生きとし生けるものは老いて生まれ、若返りながら死へと至る。此処では、それが自然の摂理だった。重力と光が編み出す不思議な場所で、砂時計はただ一つ、時間の進む方向を司る神聖な存在とされていた。

    物語は、一介の風景画家から始まる。彼――という人称は適切ではないかもしれないが、方便として使おう――は、毎日のように逆さの木々、若返る動物、そして風に流される青々とした草原を描いていた。彼の目は、ある日、一つの風景に固まった。老人としてこの世に現れ、少年へと若返りつつある一人の孤独な存在を捉えたのだ。

    その存在は、日が落ちるごとに、少しずつ、しかし確実に変わっていく。一度老いたものは若返れるという神話が、この不思議な世界の真実である。画家は彼の変遷を描き続けた。赤ちゃんとして消えていくその前に、その存在が、一枚の完璧な絵になる瞬間を、彼は逃したくなかった。

    孤独な存在は自らの変化に気付いているようだった。彼と画家は言葉を交わすことはない。しかし、時折その視線が交錯し、何かを共有しているようにも感じられた。画家は彼の哀愁を、その時々の美を、キャンバスに叩き込んだ。時間が逆行する中、彼らの間の無言の対話は深まる。

    ある日、画家が彼を描いていると、ついに彼の存在がここから消えようとしていることを感じた。顔は幼く、目は不思議と深く、老人のそれを思い出させる。そして、最後の一滴が砂時計を通り過ぎるその瞬間、画家は涙を見た。それは時間の流れを象徴するかのように、上へと昇っていく涙だった。

    画家はその涙を追いかけ、ついに彼がこの世に現れた老いた姿に戻る瞬間を描いた。キャンバスは完成し、彼の存在は消滅した。だが、画家自身もまた、時間の逆行に逆らう形で老いていく運命にあった。彼がこの世に別れを告げる前に、一枚の絵を後に残した。それは時間が正しい方向に流れる世界の一コマを描いたものだ。

    砂時計は静かに、そして確実に逆さまに再び流れ始める。画家もまた、生まれたときの姿に戻る。彼の絵は、その世界のどこかで見つかるだろう。見る者に、孤独、時間、そして存在の意味を問いかけながら。

    風は画家がいた場所を静かに吹き抜ける。

  • 無音の木

    寂寞の谷にひとつの木がありました。天に伸びる長い枝は青々として、風が吹いてもその音は聞こえません。世界がひっそりとした存在感に満ちていました。その木はそこで何年も変わらず、時の流れと共に老い、若い木々が目に見えて成長するのを静かに見守っていました。

    ある日、病により老木の一部が枯れ始めました。老木は自身の変化を感じ取りながらも、静かにその運命を受け入れていました。元々、自己を有するものではなく、ただ在ることだけが仕事でした。しかし、以前から感じていた存在意義の問い、木としての役割とは何かという問いはやはり静かに心の中で燻っていました。

    木の下には小動物や菌類が生息し、木が提供する栄養や実を食していました。彼らにとって木は生命の源であり、命の支えでした。しかし、木自体はその恩恵を感じる存在ではありませんでした。ただ、季節が変わり、日が昇り、また沈むそのリズムの中で知らず知らずのうちに無数の生命に影響を及ぼしていました。

    季節はまた一つ過ぎ去り、冬の冷たい風が谷を覆い始めた時、老木の近くに人が住み始めました。病に冒された木を見つけて、彼は少しずつ枝を剪定し、樹皮を取り除いていきました。老木はその手の温もりを感じていました。無声で無音の世界で、初めて他者との接触を持ちました。木は少しずつ元気を取り戻し、新しい芽が生え始めました。

    人は木が元気を取り戻すとともに、切り取った木の部分を小屋の燃料や家具作りに用いました。そして、彼は木の下で過ごす時間が長くなり、よく木に話しかけるようになりました。「君はここにずっといるのかい?」「僕はいつか離れるけど、君はどうするんだ?」

    老木は言葉を理解することはできませんが、人との関わりから新たな感覚を知りました。彼の声の響き、触れる手の感触、そして周りの小動物や菌類が放つ生命の匂い。それらすべてが、木にとって新しい世界を開いていくようでした。そして、木は学びました。存在すること、少しずつ変わることが何かをもたらすのだということを。

    人と同じように木も変化し、成長する。彼らは互いに影響し合いながら、それぞれの役割と存在意義を見出していくのです。そして、ある朝、人が谷を去る時が来ました。彼は老木に手をかざし、静かに言葉を残しました。「ありがとう、また会う日まで。」その日、初めて木の葉が風に揺れる音が聞こえました。それはまるで、別れを惜しむような、静かな囁きのようでした。

    彼が去った後も、木はただそこに在り続け、谷の一部として存在し続けました。変わらないようで、少しずつ変化し、新しい命を育むために。

    Silence reigns, yet life whispers quietly beneath.