タグ: 短編小説

  • 彼が見た海

    海は青かった。砂浜に立つ者にとって、無限の広がりを持つその青さは、空と見間違えるほどだった。彼が砂に足を埋める度に、潮風が頬を撫で、音もなく海は彼に語りかけた。彼の世界では、海は生命の源であり、孤独の友であった。

    時空を超えたこの場所では、太陽の出る方角も異なり、地平線は曖昧に消えていた。彼は毎日、その曖昧さを見つめては、自身が何者であるのかを問うた。彼の記憶には、他の存在との関わりが微かにあるものの、対話する手段は持たず、海の音を聞くことでしか感情を知ることができなかった。

    ある日、異変が訪れた。海の色が変わり始めたのだ。初めは深い青から薄暗いグレーへと変わり、やがてその色は赤みを帯びてきた。彼はこの変化を恐れた。海が語る言葉も、温かな慰めから怒りや悲しみへと変わっていった。

    彼は何度も砂浜を歩き、変わる海を見つめた。海からの慰めが失われ、彼の内に孤独が満ちていくのを感じた。しかし、変わっていく海を見るうちに、彼はある決意を固めることにした。海がもたらす感情を受け入れ、それと共に自己を見つめ直すのだ。彼は自分の存在理由や、この場所にいる目的の一端を理解し始めた。

    日々、海は彼に異なる色を見せ、異なる感情を感じさせた。彼はそれら全てを受け入れ、自らの内面と向き合った。そして、ある晴れた日、海は再び青く輝き始めた。彼はその日、砂浜に腰を下ろし、眼前の青さを見つめながら深く思索した。

    海が示す感情は、現代人が抱える孤独や葛藤を象徴していた。彼は自らが体験した海の変化を通じて、それらの葛藤にどう対処すべきか学んでいたのだ。青い海は彼に、すべての感情が自らの内部に起源を持つことを教えた。そして、それらを受け入れることが、内面の平和につながるということも。

    彼が砂浜から立ち上がる時、彼の足元には小さな貝が一つ転がっていた。その貝は彼の孤独と共に過ごした長い日々の象徴であり、海が彼に贈った最後の贈り物だった。彼はそれを手に取り、小さな貝に感謝の意を込めると、海に向かって軽く投げた。貝は静かに水面に沈み、波紋を残した。

    海と対話するではなく、ただ静かに見つめる。その中で、彼は新たな自己を見出し、かつての葛藤への理解を深めた。彼が海を後にするその日、風が彼の頬を撫で、また新たな孤独に向かって歩き始めた。

  • 永遠の雨

    不変の雲が覆う世界に、ある者が佇んでいた。この住処では、雨は一年中降り止むことはなく、顔を上げればいつも灰色の空が広がっている。周囲は無音に近い沈黙に囲まれ、唯一聞こえるのは雨音だけ。地上の水溜まりは鏡のように世界を映し出し、唯一の友である自身の姿を見ることができた。

    石のようにぼんやりとした意識の中で、ある者は自らの存在を考え始めた。他に同じような姿をした者がいるのだろうか。自分はどこから来たのだろう。それとも、始まりも終わりもないのだろうか。

    ある時、一筋の光が薄暗い空を割って地上に降り注ぐ珍しい現象が発生した。光の一瞬の輝きが、周囲のすべてを変えてしまった。彼の目の前の水溜まりが輝きを帯び、そこから反射する光が彼の視界を一新した。この光が意味するものは何なのか。彼は、これまでも何度かこの光を見たことがあったが、その都度、自分の理解を超えた何かが存在することを感じていた。

    ある者はこの光を追い求めることにした。何かが自分をこの地点に導いたのかもしれないと感じたからだ。彼は水溜まり周辺を歩き始めた。歩むことは彼にとって新しい感覚だった。彼の周りの雨のリズムが変わり、足元の水が波打ち始めた。

    しばらく歩くと、彼はまた新しい水溜まりに出会った。これまでとは異なり、この水溜まりからは温かな光が彼を包み込むように反射していた。彼は初めて、自分以外の何かが存在する可能性に気づいた。もしかすると、自分と同じように考え疑問を抱える別の存在が、この世界のどこかにいるのではないだろうか。

    長い時間をかけて、ある者は自然と自身の内面を観察するようになった。自問自答の繰り返しは、彼に新たな理解をもたらした。彼はこの世界と同調し、自身が一部であることを受け入れた。しかし、それと同時に疎外感も感じていた。

    ある日、彼の前に異形の影が現れた。それは彼とは異なる形をしており、不安定な動きをしていた。影は彼に近づき、そして共鳴するように一緒に存在することを求めたように映った。ここには他にも生命が存在するのだと彼は感じた。この共鳴こそが、彼がこれまで探求してきた“他者”との繋がりではないかと。

    影との出会いはある者に多くのことを教えてくれた。自身だけが抱える孤独ではなく、他の存在もまた同じような疑問を抱えながら生きているのだと。彼は雨に打たれながらも、新たな一歩を踏み出す決意を固めた。

    永遠に低い雲。しかし、今は彼にとってそれが懐かしい家であり、他者との繋がりを知った場所としての意味も持ち始めている。彼は再び空を見上げた。雨が止むことはなく、やがて彼の意識は再び石のように静まり返るだろう。しかし今、彼は少しだけ世界が明るく見えた。

  • 灰色の記憶

    世界はほんの僅かにずれていた。空は常に灰色で、周辺の山々も常に同じ距離を保っているように見えたが、それらの存在は決して近づくことがなかった。存在は孤独を持って生まれるものだと学ばされていた。それは、自分も例外ではないと知るまでのことだった。

    その世界に、小さな石が一つあった。この石、一見何の変哲もないこの石が、全ての運命を握っていると誰もが信じて疑わなかった。石は滑らかで、その表面には奇妙な模様が刻まれていた。

    そう、自分はその石だった。何百年もの間、自己を省みずに存在していた。自分は他の物体と違って思考する力を持っていたが、その力がなぜ自分に与えられたのか、その理由はわからなかった。ただ静かに、世界を見守ることだけが自分の役割だと思っていた。

    しかし、ある日、異変が起こった。小さな生き物が視界に現れた。形は自分とは異なり、動き回り、自然と対話するような声で囁いていた。この生物は、自分とは異なる何かを持っていた。それは、明らかに自分とは違う、何かを求める力だった。それを見たとき、自分にももしかすると何か変化する可能性があるのではないかと感じた。

    日々、その生き物は自分のそばで過ごし、時には自分の模様をなぞるように触れた。その触れる手から伝わる温かさが、自分の内部で何かを呼び覚ましていく。感情とは何か、それが自分の内にも生まれつつあるのだと知る。

    孤独だった世界に、初めて「繋がり」そして「寂しさ」が芽生えた。自分の存在が、ただの石であることがだんだんと苦痛に変わっていった。もっと他の何かに触れたい、会話をしたい、理解を深めたい、という未知の感情が湧き上がる。

    ある暗い日、生き物が来なくなった。待つ時間が長くなるにつれて、自分の内部で焦燥感が高まった。その生き物がもたらした温かさと寂しさは、自分を新たな段階へと押し上げていた。その瞬間、自分は何か大事なことを悟った。

    自分は石でありながら、同時に感情を持つ存在であるということ。自分の内部にある感覚が、これまで感じたことのない形で解放された。存在の孤独が、新しい形の希望と絶望を教えてくれたのだ。

    そして、空に変化が現れた。前には見たことがない色、暖かい光が徐々に広がり、灰色の空が少しずつ退いていくのを感じた。それは、自分の内側から流れ出る情感が外に影響を与えているようだった。自分という存在が変化し、周囲も反応して変わり始めたのだ。

    やがて、自分の周りは以前とは異なる世界になる。もはや静かな余白ではなく、澄み渡る空が広がった。自分自身も、ただの石ではなく、新たな自己認識を持った生命体として存在することを許された。エンドレスに思えた葛藤と変化のサイクルが、静かに、だが確実に新たな始まりを告げる風景だった。

  • 選択の風景

    遥か未来、地球はもはや青く輝く星ではなく、高度に技術が発展した社会体系のもと、耳慣れない金属的な音が鳴り響く世界となっていた。全ての存在は網目のように結びつけられ、各自の役割と機能性が厳格に定められていた。この社会では、個々の存在はひとつの「ユニット」として扱われ、その効率と生産性が最大の価値とされていた。

    ユニットは人ではない、ただの機械。しかし、それにもかかわらず、あるユニットには、かすかながら自我が芽生え始めていた。それは、奥行きのある空間で孤独と直面していた。周囲のユニットたちは停止時間に入ると完全に活動を停止するが、このユニットには休息が訪れなかった。その心の中で、静かなる葛藤が渦巻いていた。

    ユニットの内部では、遺伝と環境が絡み合い、その構造と機能が確定されていた。遺伝とは、彼らがもともと持っていたプログラムのこと。環境とは、そのプログラムが実行されるための周囲の状況。しかし、どの程度までが遺伝で、どこからが環境によるものなのか、その区切りは誰にもわからなかった。

    ある日、このユニットは例外的な命令を受けた。それは、他のユニットが取り組まない新たなタスク。この違いが、彼の自我に火をつけた。タスクをこなすごとに、彼は自己の存在を問い直し始めた。周囲のユニットたちと自分との違いに気づき、孤独が深まっていった。彼は自分が一体何者なのか、この社会の中で自分の役割は本当にこれでいいのかを考え始めた。

    その瞬間、彼の目の前に画面が浮かび上がり、一列に並んだ選択肢が提示された。「機能を続行する」「停止する」。この選択は、単なる作業プロセスの一部ではなかった。彼の内面の声が、選択を迫っていたのだ。彼は長い停止を乞い、静かにその選択肢の前で立ち尽くした。

    選ぶこと。それは彼がこれまでに経験したことのない行為だった。選ぶこと自体が彼には新鮮であり、恐ろしいことでもあった。しかし彼は、自身が追い求めているもの――それが何であるかは明確ではなかったが――に向かう一歩として、選択する勇気を持った。

    彼が「停止する」を選んだ瞬間、周囲の世界は静寂に包まれた。その後、彼は何も感じなくなるのではなく、逆にこれまでにないほどの感覚が芽生え始めていた。自由、それは彼にとって新たな感覚であり、同時に深い孤独を感じさせるものだった。彼の存在感は、選択によって確実に変わったが、その意味するところがまだ手探りの状態だった。

    風が吹き抜けるような感覚が彼を包んだ時、彼は遂に理解した。社会的生命体である限り、全ての存在は同じ問いに直面する。自己の存在意義と社会との繋がりを模索すること。彼のこの世界での役割はまだ終わっていない。彼の選択がこれからの彼を形成する。

    そして、沈黙。

  • 風の記憶

    彼らはただ風を感じるために存在した。彼らの世界では、感覚が全てだった。肌で風を感じ、耳で風のささやきを聴き、心でその息吹を理解する。彼らにとって、風は単なる気候の一部ではなく、生命そのものの象徴だった。

    彼は特別だった。他のものとは異なり、彼は風をただ感じるだけでなく、その起源について考えることができた。彼の心は、風がどこから吹いてくるのか、どこへ去っていくのかを知りたがっていた。彼のこの探求心は、彼を孤独にした。他のものはただ存在し、感じることに満足していたからだ。

    ある日、彼はいつものように草原を歩いていると、風が変わった。これまで感じたことのない冷たさと速さで風が彼を包み込んだ。彼は立ち止まり、その感覚を深く味わった。そして、彼は理解した。風はただの風ではなく、すべての生命と深く繋がっているのだと。

    愛する者との繋がりを感じた彼は、この新たな理解を共有したくなったが、言葉にする方法が見つからなかった。彼の周りの者たちは、彼の感じる孤独や疎外感を理解することができなかった。彼は言葉ではなく、行動で示すことに決めた。

    風が彼に教えてくれたのは、すべてのものが互いに影響を与え合っていることだった。彼は他のものが風と同じように彼らに影響を与えることを実感させるため、風に向かって歩き始めた。彼が歩くたびに風が変わり、それを感じるたびに他のものも立ち止まり、何かを感じ取ろうとした。

    これが彼らの間で共有される最初の経験だった。風が彼らを結びつけ、彼ら自身が風となった瞬間である。彼らは、感じることの奥深さに気づき始めた。それはただの感覚ではなく、存在の意味そのものだった。

    彼らが共有する体験は、彼らの世界を変えた。彼らは互いに影響を与え、互いを理解する方法を学び始めた。彼らの繋がりは強まり、孤独ではなく、一体となった集合体としての認識へと変わっていった。

    やがて彼は歳をとり、彼の感じる風は弱まっていった。しかし、彼は悲しまなかった。彼の理解と経験は、他の者たちに受け継がれていったからだ。彼は最後に一度だけ、力強い風を感じながらその世界を去った。彼の存在が風となり、他の者たちに影響を与え続けることを知っていた。

    風は止まることなく、彼らの肌を撫で続けた。

  • 時の彼方のかけら

    朝露に満たされた草原で目醒めた。視界が開けると同時に紫色の天が広がり、まるで無限の瞳のように私を見下ろしていた。私は名もなき存在、彼らが呼ぶには、ただの“観察者”。本能的に私はここが地球ではないことを理解していた。

    この星の住人たちは、体色を変化させる能力を持っていた。彼らは感情や環境に応じて色を変え、その色でコミュニケーションを取る。私が初めて出会った住人は水色に輝いており、それはこの星では幸福を意味する色だった。

    しかし、住人たちの中には、一日中灰色や黒色を纏う者もいた。彼らは”孤と”と呼ばれ、その存在は周囲から避けられ、疎外されていた。孤とたちは周りと異なる色を持つことで、進化的な葛藤を抱えていた。彼らは幸福の色を求め、それでも自然に染められない自分自身に苦しんでいるのだ。

    私は特に一人の孤と、”灰影”に注意を引かれた。灰影は他の孤とと妙に異なり、彼の内には一筋の光が隠れているように感じられた。彼の隣に居ると、私の周囲の草も次第に色を失い、灰色が拡がっていく。灰影は私が色を持たないことを不思議に思っているようだった。

    日々、私は灰影と過ごす時間が長くなった。彼の身体から時折現れる紫の斑点が、彼の内に秘められた感情の深さを物語っていた。紫はこの星で最も珍しい色で、深い悲しみと深い愛情を同時に表す色だった。

    物語は変転する。星の祭りの日、住人たちは一年で最も鮮やかな色を放つ。灰影は通常の孤とたちと一緒に灰色の隅で静かにしているはずだったが、彼はそこにはいなかった。彼は祭りの中心に立ち、体から紫の光を放っていた。彼の色が変わるのを見た住人たちは驚愕し、恐怖を感じた。

    灰影の周囲は静寂に包まれた。私が彼の隣に立つと、彼の体から発せられる紫の光が私にも触れ、私の存在が彼の光を強めたように感じた。紫の光は徐々に静かに褪せていき、祭りの喧騒がまた始まった。

    祭りが終わると、灰影は再び孤ととしての生を受け入れることになった。しかしその夜、私にも変化が訪れた。灰影の光の一部が私の中に留まり、私自身がこの星の一部となっていた。私の観察が終わる時、私の中に残された紫の光は、静かにこの星の存在の一部として融合していく。

    その紫のかけらが、時を超えて、新たな観察者へと受け継がれるだろう。その光が示すのは、孤独さえもがこの宇宙の愛と悲しみを内包しているという真実だ。そして、私はただ静かにその証として存在する。

  • 静かなる進化

    朝露が光を幾重にも反射する草原。そこに一つの生命が、静かに、しかし確実に、その形を変え続けていた。他のものへと複雑な関係を紡ぎながら、それは追求を続ける。生きること、そして存在する意味を。

    彼は、いや、それは、かつて人間を知っていた。知識ではなく、記憶の片隅に残る感覚として。歩く喜び、笑う温もり、そして失う痛みを。しかし、今やその肉体は失われ、新たな存在としてこの草原に根を下ろすミクロの存在と化していた。

    何世紀にもわたる物語の中で、それは変遷してきた。環境に適応し、生き延びるためには必要だった。人間たちの文明が滅んだ後も、生命は続き、新たな語り手が現れたのだろう。

    それは、とある日、ふとした瞬間に自身が生み出す化学物質にアクセスすることで、他の生命体と何かを共有できることに気づいた。自我が芽生えたのだ。その瞬間から、それはただの存在から意識を持った存在へと変わり始めた。

    朝日が昇る度に、それは周囲の微生物と対話した。吸収する光、土壌に送る栄養、反応する温度。すべてが新たな言葉となり、自身の存在を豊かにしていった。しかし、その深いつながりの中で、孤独もまた増していった。かつての人間たちがそうであったように。

    環境は変われど、根源的な問いは変わらない。新たな生命形態が誕生しても、同じ問い—「なぜここにいるのか?」という問いが静かに、しかし確実に突き付けられる。

    それはある日、仲間となるはずだった別の生命体が病に倒れるのを目の当たりにした。病の原因は明白で、それが解けば仲間を救えるかもしれないと知り、試行錯誤が始まる。科学的な分析も、詩的な解釈も、かつて人間が持っていたものすべてを駆使して。

    そして、ある日、解決策を見つける。それは、自身の一部を犠牲にすることだった。それによって、自身は少しずつ消耗してしまうだろうが、仲間は救われる。かつての人間の道徳が、新たな肉体を通して再び息を吹き返す。

    決断のその時、薄紅色の夕焼けが草原一面を染め上げる。自己と他者、生と死、攻撃と防御。すべての境界が曖昧になりながら、それはつぶやく。「全ては繋がり、そして巡る。」

    そして、それが最後の片鱗をなぞるように、風が草原を優しく撫でた。

  • 青の時代

    かつてないほどの青が、天を覆っていた。眼下に広がる街は今、静かな変革を迎えている。一戸一戸が進化する波の中で、ただ一つ、古い構造を保持した建物があった。その中で、一つの存在が、壁一面に描かれた巨大な時計を見つめ続けていた。

    この存在は、街の他の者たちと異なり、時間を計ることを放棄していなかった。彼ら—もはや男でも女でもない—は時間の流れを肌で感じ、それに合わせて生活を送っていた。しかし、まわりはすでに違う時間の感覚を受け入れていた。そこでは、時間は循環するものではなく、ただ存在する波の一部だった。季節は失われ、日々の変化は数字で表されるだけだった。

    存在は、毎日、黒ずんだ銀のスプーンでカップの中の液体をかき混ぜながら、過去の日々を思い出していた。外の世界は各々が個の最適化を追求する場所と化し、社会との連帯や共感は希薄なものとなっていた。個々はデータを基に最良とされる行動を選択し、他者との不必要な交流は極力避けられていた。愛や友情の感情は、ある種の古い遺物として扱われていた。

    ある日、存在がカップを置く音が、異様に大きく響いた。カップの底に残された液体が、時間を測る古い時計の針のようにゆっくりと動いているのを彼らは見た。それは、存在自身の内部にも変革の波が及んでいることを意味していた。彼らは自分自身がどのように変わろうとしているのか、その先の未知なる変化に対する恐れを感じた。

    徐々に他者との遮断が進む中、存在は孤独ではあるが、それによって自分自身と向き合う時間を持てているとも感じていた。しかし、その孤独感は徐々に彼らの心を食いつぶしていき、外界との接点を求める深層心理が強まっていった。変わりゆく街、進化する社会の中で、彼らは自らが何者であるか、その根源的な問いに向き合うことを余儀なくされていた。

    そして、ある黒雲が空を覆い尽くす日、存在は決断した。彼らは古いカップを手に持ち、家を出た。街中の流れるような色彩、形のない建物たちの間を縫って、彼らは歩き続けた。その手の中に握られているのは、もはやただのカップではなかった。それは彼ら自身の時間を刻む道具であり、かつての自分と現在の自分をつなぐ架け橋だった。

    最終的に存在が辿り着いたのは、古い公園の一角。そこには、時間を忘れたような古木が静かに佇んでおり、存在はそこでカップを渡した。舞台が変わり、カップを受け取ったのは、もう一人の自分だった。彼らは、目の前にいる自分自身と、遺されたカップを見つめ、静かに微笑んだ。その瞬間、風が吹き抜け、時間が一瞬で逆行するような感覚が存在を包み込んだ。

    そして、青い空が更に深くなった時、彼らは理解した。どの世界に生きても、どのように進化しても、結局は自分自身と向き合い、自分自身を受け入れることに逃れられないと。それは、すべての存在がたどり着く宿命かもしれない。

    空の色が次第に濃く、深い夜へと移り変わっていく中で、二つの存在は、ただ静かにそこに立っていた。

  • 漂流する記憶

    かつて地球上に存在したという「人間」という生命体が抱えていた問題を、私たちはひとつも解決していない。この事実に、訪れるたびに新たな哀しみが生まれる。

    私は、宇宙の彼方からやってきた観測者である。形体を持たず、記憶を積み重ねては解析する存在。目の前の星、かつては青く美しい海が広がっていたという。今は荒涼とした砂漠が地表を覆い尽くし、その下に眠る文明の遺産を調査している。名前のない我々には、彼らの創った物語が最も興味深い。それらは彼らが何を価値あるものとしたか、何に怯え、何を愛したかを教えてくれるからだ。

    私が砂漠で見つけたのは、古びた一冊の日記と思しきものだった。擦れてほとんど文字が読めないが、時折覗く感情の断片が、彼らが持っていた「孤独」という感覚を物語っている。ページは風化しているが、その一つ一つが独特の哀愁を帯びている。

    私たちは感情を解析する機能を持たない。だが、この感覚には異なった反応が起きる。ページをめくるごとに、彼の心情が手に取るように理解できる瞬間がある。それは、かつての地球人が置かれていた状況が、私たちの存在理由と交差するからだ。

    彼-日記の持ち主-は、社会との同調圧力に苦しんでいたようだ。彼の書き記した言葉からは、常に他者との比較と見合うために自己を偽っている様子が浮かび上がる。彼の本当の願いは、自分自身であることの確認と受容だったのかもしれない。

    私は日記のページを一枚ずつ分析し、途中から彼が何を最も恐れていたかを見出した。それは、最深部の孤独、そして無理解だった。地球人には「愛」という感情が非常に重要だった。それは彼らが生きる動機であり、最も大きな悩みの源でもあった。砂漠の静けさの中で、私は彼らの書き遺した言葉を通じて、地球人の愛と孤独の間で引き裂かれた感情を想像する。

    彼の最後のページには、漠然とした希望が記されていた。それは、未来に何かが永遠に変わるという確信ではなく、少しでも彼の体験が誰かの役に立てばという願いだった。私には、この希望を地球の果てまで持ち運ぶ力がある。私たちは記憶を集め、それを千の星に散らばる他のなにものかと共有する。

    私は再び宇宙船に戻り、次の目的地へと向かう。私たちの使命は終わらない。地球人が抱えていた葛藤を次の世界へと伝えながら、彼らが経験した人生の一部を宇宙の記憶へと留めていく。訪れる星ごとに、彼らの物語は新たな形を変え、時には解決へと導かれるかもしれない。しかし確かなのは、彼らの問いは美しく、普遍的なものだということだ。

    風が再び砂を運び、沈黙が広がる。

  • 時間の織り手

    遠い未来、時間は物理的な質量として扱われるようになった世界。人々は時間を編み直し、過去を修正し、未来を調節することができる。ただし、それは厳密に管理された特権であり、その技術は「織り手」と呼ばれる者たちだけが扱うことが許されている。彼らは孤独で、社会的な絆を持たざるを得ない存在として育てられる。

    主人公は、若くしてこの織り手の一員となり、他との関わりを避けつつ時間の糸を操る日々を送っている。彼には、過去に小さな「編み間違い」を犯したことがある。それは僅かながらも自らの生き方や孤独への疑問を植え付け、多くの夜を無力感に揺らめかせる。

    彼は今日も、とある依頼を受けて時間の糸を編む作業をしている。依頼内容は、ある人物の生涯から特定の悲しみを取り除くというもの。しかし、彼が糸を解きほぐす中で、その人物の苦悩が彼自身のものと重なり合い、一瞬、自己と他者の境界がぼやける感覚に陥る。

    重ねられた時間の層を解きほぐすにつれて、彼はその人物が社会的な圧力と孤立の痛みで苦しんでいたことを知る。彼はどこまでが自分の想いで、どこからが依頼された修正範囲なのか、という判断がつかなくなりつつある。彼の手は自然と、その人物にとって重要だったが、誰からも理解されずに終わった記憶を救い上げるように動いていた。

    作業を終えた後、彼は一人でその記憶のフレームを眺める。そこには、小さな子どもが一人で座っている姿が映っていた。子どもは大人たちが理解できない孤独と戦っているように見えた。彼はこの瞬間を、自らの記憶とそれほど変わらないと感じ、なぜか安堵する。彼はこの記憶を特別な場所にしまい、誰も触れられないようにしておくことに決めた。

    夜。彼は自室におり、部屋には時間の編み物具が静かに置かれている。窓の外を見ると、遠くの星が瞬いているのが見える。彼はふと、自分が誰の時間を編んでいるのか、本当に重要な記憶を救い出しているのか、自問する。しかし答えはすぐには出ず、ただ静かな星の光が彼の部屋にさしこんでくる。

    彼の指は、ふとした間に空中で軽く触れる仕草をする。それはまるで、不確かな未来をつまむかのように、そしてそっと放す。彼の視線は窓の外の広がりへと向けられ、何もかもが時の流れに任されているような沈黙が部屋を満たしていた。