濤の音は絶えることなく、彼の心の隅をなぞる。海は青く、深く、そして秘密を吐露しない。彼は砂浜に座り、無限に広がる水平線をじっと見つめていた。同じ景色を何度も何度も眺めては、気づかないうちに夕暮れが訪れる。独りで。
時はどこか遠く、存在の根源まで遡り、彼が属する種族は海から生まれ、いつしか陸に進出した。しかし彼は、陸の生活に馴染めずにいた。彼らの社会は高度に進化し、意識の同調が日常となっていた。感情や思考を共有することで、個の葛藤は最小限に抑えられ、調和の取れた共同体が築かれている。
しかし、彼にはそれが耐えがたいほど苦痛だった。内なる声は常に海を求めており、彼だけが異なる波長で振動しているように感じられた。彼は彼らと違うのではないかと、密かに自問自答していた。
彼の種族には、成人になる儀式が存在する。それは海に戻り、原初の水を一身に浴びることで、一人前の成員と認められる儀式だ。彼にもその日が訪れた。海は彼を受け入れるか、それとも拒絶するのか。彼は不安と期待が入り交じる複雑な感情を抱えながら、海に向かった。
太陽が水平線に沈む頃、彼は海に飛び込んだ。水は冷たく、彼の身体を包み込む。彼はしばらく海中で目を閉じ、周囲の全てを感じ取った。海の生命、水の流れ、そして何よりも彼自身の心の鼓動。それらが一つになった瞬間、彼は何かを悟った。
陸に戻った彼の目は変わっていた。彼は自らの存在を受け入れ、同時に彼らが生きる現実も受け入れた。彼の内面にある海と陸、その境界線で彼は自身のアイデンティティを見つけたのだ。彼は異なると感じていたその感覚が、実は彼ら全員が持つ多様性の一端を示していただけだと理解した。
彼は再び砂浜に座り、海を見つめる。今度は彼は独りではなかった。隣には彼のように海を愛する者が座っていた。言葉はなく、ただ静かに波の音を聴いている。彼の心には以前のような孤独や疎外感はない。ただ、共有される静かな理解と、深い繋がりがあった。
波は遥か遠くから来て、そして去っていく。彼と彼の隣の者の間に流れる無言の対話は、海の波のように自然で、永遠のように思えた。それは彼らだけのもので、誰にも破ることができない静かな絆だった。
風が吹いて、波が彼らの足元を軽く打つ。そして、すべては沈黙とともに終わり、余白に包まれる。
コメントを残す