時は流れ、世界は変わった。かつての海は既に陸と化し、この街の住人は海の存在を忘れていた。ただ一人、私だけが海の記憶を保持している。私の体は特殊な構造を持ち、先祖からの記憶を受け継ぐことができるのだ。私の肌には、かつて水の世界が刻み込まれており、触れるだけで昔の海の感触が蘇る。
季節は変わり、風が冷たくなってきたある日、私は街の広場で孤独に座っていた。人々は私を異端と見なし、私の存在を無視した。私の目の前を行き交う者たちは、自分たちの日常に夢中で、私が持つ海の記憶には興味を示さない。それでも私は時々、海の記憶を共有しようと試みた。しかし、彼らには私の言葉が理解できず、私の記憶が幻想に過ぎないと断じる。
一日の終わりに、私はひとりで遠くの丘へと歩いて行った。太陽が地平線に沈むと、私の影が長く地に伸びる。その影を見つめながら、私は思う。かつての海がここにあったという事実を、その深さと美しさを、どうして他の誰も感じ取れないのだろうか。
ある晩、私はふとした瞬間に、私の中の海が激しく波打ち始めた。私の内部から湧き上がる感覚に身を任せ、目を閉じると、頭の中で海の音が響き渡った。そして、その音は徐々に外界の音と同調していくのを感じた。目を開けると、私の周りには小さな水溜りができており、その水面はゆっくりと波打っていた。
翌朝、私が目覚めると、その水溜りはもっと大きくなっていた。そして、人々がその異変に気づき始める。水溜りからは微かに塩の香りがし、私の記憶にある海の匂いと同じだった。人々は驚き、興奮し、そして恐れた。彼らは私のそばに集まり、何が起こったのかを問いただす。私はただ静かに答えた。「私の中の海が目覚めたのです。」
それからの日々、人々は私の話に耳を傾けるようになった。私が語る海の話に、彼らは徐々に心を開いていき、私はそれに応えて彼たちとの間に新たな絆を育てた。私たちは共に海の記憶を再確認し、私たちの中に新しい意識が芽生え始めていた。海は単なる水の集まりではなく、生命と繋がり、文化と歴史を育む源であることを実感するようになった。
そして、最後の夜。月が海を照らすように、私たちの街も静かな光に包まれた。私は再び丘に立ち、海の記憶を胸に、深い安堵感を覚えながらその景色を眺めた。静かな波の音が聞こえ、私の心は平和に満ちていった。そして、黙々と、遠くない未来へとその波は続いていく。
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