空の記憶

どこかの世界。それは青い光が支配する地で、静かに時が流れていた。この土地の住人は、記憶を持たない。空が、すべての記憶を吸い上げてしまうからだ。そして、ただ一つの雲が常に彼らの上に浮かんでいる。その雲からは、雨が決して降ることはないが、彼らの行動や感情と深く関わっていると言われている。

この世界には、感情を司る管理者(以後、管理者と呼ぶ)がひとりいる。彼の任務は、住人たちの感情をこの雲に送ること。住人たちは感情の波に乗せられて生きており、喜怒哀楽を感じるものの、なぜその感情が生じるのか、その原因を知ることはない。ただ、空の上から彼らに与えられるだけだ。

管理者は幼いころからこの役割を教え込まれ、自らの感情を技術として磨きあげてきた。彼の感情が雲に吸い取られ、青い光として住人たちに降り注がれる。彼には自己というものが存在しないように思える。彼は、ただ機能するものとして感情を処理し、住人たちに配分する。

ある日、管理者はふと疑問を抱く。自身の感情が何か具体的なものによって生じているとしたら、それは何か?これまで自分がただ機能してきただけであるならば、自我とは何か? そして、住人たちは何を感じ、どう生きているのか?

疑問が深まるにつれ、管理者の心にも変化が生じ始める。住人たちに配分する感情が少しずつ自分の内側に留まり始め、彼は彼自身の感情に気づくようになる。それは過去に誰も経験したことのない、未知の感覚だった。

自分自身の感情を初めて感じた管理者は、どうすれば良いのか分からなくなる。しかし、彼は試みる。自分の感情をその雲に送るのではなく、自分で保持し続けることを。その結果、青い光の降り方が変わり始める。住人たちもまた、いつもとは違う感情を抱き始める。

時間が経つにつれ、住人たちは管理者と同じような疑問を抱き始める。彼らは自分たちの感情がどこから来るのか、そしてそれが何を意味するのかを考えるようになる。そうして、住人たちの中で、自我というものの芽生えが見られるようになる。

管理者は、この変化を見て、初めての満足感を覚える。彼の任務は終わりを告げようとしていた。彼と住人たちは、それぞれが持つ感情と共に、自己の声を聞き始める。そして、青い光はますます明るさを増していく。

やがて、大地に初めて雨が降り始めた。それは、雲が長い間抱えていた感情が解放される瞬間でもあった。降り注ぐ雨水に、住民すべてが自分自身の心地よさを感じる。

その雨が止んだとき、管理者は自らの役割から解放される。彼はたった一つの真実を学んだ。感情は、それ自体が生れるための終わりなき旅であり、それを共有することが、真の繋がりを生み出す。

そして、沈黙が全てを包み込む。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です