風は記憶を持たず、時は涙を流さなかった。彼は何年も前から、柔らかな霧が何を覆っているのかを知ることなく泣いていた。彼の名前は知らない。名前など不要だった。ただ、彼は存在し、声を放つことを許されなかった声に耳を傾けていた。
彼の住む世界では、時間が後ろ向きに流れる。彼は昨日よりも老いて、明日には若返る。この不可解な逆転は、彼の生を未来から過去へと送り込む。失われゆく記憶、未だ知ることのない過去。それが彼の実体であり、彼自身にも理解できない。
ある日、彼は透明な壁にぶつかる。壁の向こう側には、同じく時の逆行を生きる彼女がいた。彼と彼女の目は交差し、言葉は通じなかった。互いの世界が交錯するなかで、彼らは触れ合うことなく通じ合う。言葉を失った感情が流れる瞬間、彼らは同時に涙を流す。
彼の涙は時を遡り、彼女へと届けられた。反対に彼女の涙は未来へ流れ、彼の心を潤す。この逆流する涙は時の神秘、悲しみと喜びの交錯に他ならない。愛か、それとも孤独の別名か。彼らには誰にも分からない。
日が沈み、星が昇り、彼と彼女は一歩も動かずに世界を旅する。時間の河を漂うごとに、彼らの記憶は薄れ、感情は深まる。壁の存在意義は忘れ去られ、存在自体が疑わしいものとなる。彼らは互いの存在を確かめようとするが、確かめるよりも早く忘れてしまう。
結局、彼と彼女は壁を超えることはない。彼の時間は彼女の時間と同期することもなく、彼らの涙は永遠に交差する。存在の意味を問う余地もなく、彼らはただ時の海を漂う。愛とは何か、孤独とは何か、それらの答えを得る前に、彼らの時間は逆さまの河を下り、静かに消えていく。
時は涙を流さなかったが、彼と彼女は流した。泣いたその涙が時間を形作り、二人の間の空虚な壁を湿らせていく。そして、遠く離れた誰かが、その涙を拾い、新たな物語を紡ぐだろう。知られざる涙の物語、終わりなく続く物語。
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