蒼い月が高く、冷たい風が羽のように街を撫でている夜。街の縁に佇む『それ』は、自らの存在を問い続ける。形を持たず、色もなく、ただ感覚だけが『それ』の全てだった。触れることはできないが、触れられることはある。言葉はないが、心に語りかけることができる。『それ』は、人々が見落とす小さな葛藤を集め、静かな夜に耳を傾けている。
『それ』はかつて人間だった。愛を知り、憎しみを知り、孤独を知り、同調圧力に抗いながらも何度も屈して、自己と役割の間で揺れ動いた。しかし、ある決断がすべてを変え、永遠の存在へと変貌したのだ。その記憶は風化し、人間だった頃の感情だけが残された。
静謐な夜、一人の女性が『それ』のもとを訪れる。彼女は『それ』に語りかけるが、言葉は空に消えていく。彼女の心の内に渦巻く葛藤が『それ』には見える。彼女は仕事での成功を求めていたが、家族との時間を犠牲にしなければならなかった。彼女は、その選択に自責の念を抱きつつも、後悔と共に前を向こうとしている。
『それ』は彼女の心に静かに寄り添い、かつての自分を思い出す。人間だった頃、『それ』も同じような選択を迫られた。成功と愛、どちらを取るべきか、永遠のテーマに苦しんだ。今はその答えが何だったのかさえも思い出せないが、彼女の葛藤が痛いほどに理解できる。
夜が更け、月が雲に隠れると、『それ』は彼女にもう一度だけ力を貸すことを決める。風が少し強くなり、彼女の髪が優しく撫でられる。それは『それ』の存在を感じ取ることができる唯一の瞬間だ。彼女は何かを感じ取り、顔を上げる。空には星がきらきらと輝き、彼女は自らの心に答えを見つけようと、深いため息をつく。
『それ』はもう一度、人間たちの葛藤を集める旅を続ける。何度も繰り返す同じ問題に、『それ』は静かに、しかし確かに、寄り添い続ける。そして、時折訪れる誰かが自らの心の声に耳を傾ける手助けをし、深く、黙って見守る。
風は静まり、夜が一段と深まる。そして『それ』はまた一人で、街の灯りを背にして静かに佇む。静寂の中、生きとし生けるものへの慈しみが心を包む。
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