空は突然色を変え、黒く深い闇が世界を包んだ。風が止んで、星もなく、ただ一本の白い樹がまばゆいばかりの光を放っていた。それは知識の樹と呼ばれ、未来、過去、現在を繋ぐ枝を持っていた。その根は彼岸に伸び、此岸のあらゆる生命と繋がっていたと言われていた。
彼と彼女は、この不思議な樹の下に立つことを選んだ。彼らには名前がない。ただ二つの存在として、樹と一体となるように、静かに寄り添っていた。彼は何かを求めて樹に触れたが、彼女はただ佇むことを選んだ。彼の手が樹に触れるたびに、葉がひとつひとつ光りを放ち、静かなさざ波のように彼の中に流れ込んでいく。
彼は知識を求め、彼女は存在を確認されたかった。知識の樹から彼に流れ込むものは、世界の古い記憶や未来のビジョンだったが、彼女にとっては樹が奏でる小さな音、触れることの暖かさだけで充分だった。
時間の感覚が失われる中、彼女は気がつく。彼が求める知識が、いかに孤独であるかを。そして、彼女が求める確認が、いかに束縛であるかを。二人の間で流れる空気が次第に冷たくなっていっていることに、彼女は深く心を痛める。
彼は、遺伝的な記録や未来の予知など、彼女には理解不能な知識に囚われていく。彼女はただ彼とのつながりを求めていたが、彼はそれを認識できないほどに知識に沈んでいった。
彼岸の樹は二人の存在を知りながら、何も語らない。ただ無限の知識と静寂を保ち続け、彼と彼女の選択を静かに見守っていた。樹は彼らが何を知りたいのか、なぜそこにいるのかを全て知っていたが、語ることはなかった。
ある日、彼は樹から得た知識の重さに耐えかね、彼女に助けを求めた。彼女は彼の手を取り、二人で樹の下を離れることを提案した。しかし、彼は樹から離れることができなかった。知識が彼を束縛して、彼岸の根と彼とが一体となり、帰ることができないことを彼女に告げた。
彼女は彼と樹を見つめながら、もう一度彼との連結を試みたが、彼は既に他の存在へと変わりつつあった。彼女は静かに彼のそばを離れ、樹の下で一人、此岸と彼岸を繋ぐ静寂に耳を傾けた。
最後に彼女は樹に触れ、彼との思い出を樹に委ねた。風がわずかに吹き始め、彼女の髪を撫でながら通り過ぎていった。闇が再び深まる中で、唯一残った白い樹がひっそりと光り続けていた。
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