古びた時計の針

世界は静かに息をしていた。肌に感じる冷たい風、重くなった空の色、それは今にも泣き出しそうで、だけど決して零れ落ちない涙のようだった。その小さな部屋の中、壁に掛けられた古びた時計の針が唯一の音を立てる。時間が、ゆっくりとしか進まないこの場所で、存在そのものが過去へと逆行していくように感じられた。

部屋の中央には小さなテーブルがあり、そこに、一枚の紙が静かに置かれていた。紙の上では何も書かれていない。色も形も区別できないほど古びて、それが何年、何世紀のものなのかさえ分からない。空気のように、そこにあって、でも存在しているかのように感じられなかった。その紙が今日、何かを待っているようにも見える。

ある日、部屋の入口に、現れる者がいた。彼は何も持たず、ただ静かに部屋に足を踏み入れた。青白い光がその顔を照らし、彼の視線はテーブルの上の紙に固定されていた。彼がテーブルに近づくにつれ、時計の針の動きが少しだけ速くなる。彼は紙に手を伸ばし、そっと触れた。その瞬間、部屋全体が震えたように感じたが、震動はすぐに静まり、何事もなかったかのように古びた時計の針の音だけが残った。

彼は長い間、紙を見つめ続けた。その間、部屋の外の世界は変化していく。窓の外の風景が次第に色を失い、どんどん白くなる。外の世界が失われていく中、部屋の中では紙が彼に何かを伝えようとしているように感じるが、彼にはそれが何なのか理解できなかった。彼はただ、紙と共にあるだけだった。

時が経つにつれ、彼は自分が何者かを忘れ始めていた。紙と同化していくように、彼もまた、その存在を希薄にしていった。周りの世界はもはや何も見えず、彼にとって重要なのは、紙との関係だけだった。そして、紙が彼に何かを教えようとしていることを感じることが、彼を生かしていた。

やがて、彼は紙に文字を書き始めた。何を書いているのか、彼自身も分からなかった。彼はただ、書くことでしか自分の存在を確認できなかった。文字は彼の手から流れ落ちる涙のように、紙に滲んでいった。それは彼の生の一部が紙に吸い取られるようだった。

最後の一滴の涙が流れ落ちたとき、部屋は再び震えた。そして、すべてが静かになった。外は完全に白く閉ざされ、部屋の中は曖昧な光だけが残る。時計の針は停止し、紙は彼と一体となった。彼の存在は、過去と未来の間、紙の中に封じ込められた。

静かな部屋で、時間が消失したその瞬間、彼は分かった。それはただの紙ではなかった。それは彼自身だった。そして、彼の書いた文字は、彼自身の生の記録であり、彼が自らを解放する唯一の手段だったのだ。彼は紙であり、紙は彼だった。そして、静寂が全てを包み込む。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です