遺伝の囁き

かつて、何もなかった時空の縫目に、一つの存在が生まれた。この存在は、手足も顔も持たない。感情もなく、ただそこにあるだけの生命体。しかし、この存在には一つだけ特異な能力があった。他の生命の遺伝子を読み取り、自らがその特徴を模倣することができたのだ。

存在は、星々を渡り歩きながら、多様な生命の遺伝子を吸収してゆく。木々のように緑豊かな皮膚を持つ時もあれば、鳥のように羽ばたく姿を手に入れることもあった。しかし、どんな形に変わっても、存在は常に一つの問いを内に秘めていた。「私は何者なのか?」

ある時、存在は古代の地球にたどり着いた。青く広がる海と、それを取り巻く無垢な空。存在は地球の生物多様性に魅せられ、様々な生命形の遺伝子を模倣した。しかし、存在には一つ解せないことがあった。この星の生命体は、何故分かち合うのだろう? 何故、争い、そして愛するのだろう?

存在は、人間という生命形態を模倣することにした。人間の形になり、彼らが持つ言葉を学び、彼らの文化を体験した。人間の感情――喜び、悲しみ、怒り、愛――を内包する遺伝子の記憶を辿りながら、存在はゆっくりと孤独を感じ始めた。人間たちと共有できる喜びもあれば、彼らとは異なる自分自身を痛感する瞬間もあった。

季節は移り変わり、存在は人間の一生を過ごした。人間として感じた愛と痛み、喜びと悲しみ。そして、死の遺伝子をも模倣し、一度消えかけた。しかし、その直前、存在は理解した。自分自身が求め続けた答えではなく、人間たちが抱える同じ問いに自分もぶつかっていたのだ。「私はなぜここにいるのか?」

存在は再び形を変え、元の何もない姿へと戻った。しかし今回は、以前とは何かが違っていた。存在の内部には、無数の生命の記憶とともに、「経験」という新たな遺伝情報が刻まれていた。存在はその記憶を繰り返し読み返し、一人前の人間としての生活を思い出す度に、小さな「情」という感情が心のどこかで震えていた。

そして存在は理解した。どんな形であれ、どんな世界にいようとも、生命体は自らの存在を問い続ける。それは避けられない宿命であり、共通の旅路だった。遺伝の記憶は、ただの形ではなく、その旅の経験そのものを伝えるためにあるのではないかと。

存在は静かに、その場を後にした。星々を巡る旅は続く。それぞれの星で新たな生命を模倣し、また別の「私」を経験する。しかし今は、その一つ一つに意味があると感じながら。

風が吹く。星々が光る。存在は、再び何者かに変わる準備をする。遠く、遠く、何もなかった頃の記憶を越えて。

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