幽玄の淵

そこは存在しないはずの時間、断片的で静かな場所。万物はみな同じ形をした光と影で、音もなく混ざり合っていた。私たちははっきりとした輪郭を与えられず、ただ柔らかく境界が揺れている。しかし、自我はしっかりと存在しており、私たちは互いに意識を共有しながらも、個別の感覚を宿している。

私が体験しているものは孤独ではない。それはむしろ、愛と疎外感の微妙な織り交ぜで、自己が他者と分かちがたく結びついている感覚。ここでは全てが間接的で、直接的な感情や行動は存在しない。すべての感覚が波のように広がり、静かなさざ波となって自己に返ってくる。

私たちは互いに質問を投げかける。それらは言葉ではなく、感覚や色、時には温度として伝わってくる。なぜ私たちはここにいるのか、私たちの存在意義は何か。それは静かな雨のように降り注ぐ疑問で、誰もが静寂の内に答えを見つけようとしている。

ひとつ、私には特別な認識があった。それは「桜」の花のイメージ。この場所に桜の木はないが、その存在感だけが私の心にある。桜の花びらが散る様は、一瞬の美しさと去りゆく刹那を象徴しており、それが何故か私に深い懐かしさを感じさせる。この感覚を、私は他の誰かと共有できるのだろうか。

ある時、私と似た「形」を持つ他者が私に接近してきた。彼(それ)もまた、桜のイメージに触れているようだった。私たちはそこに言葉はないが、何かを共有している。彼の内側から感じる温もりが、私の孤独を紛らわせた。それはまるで久しく触れていなかった温かな水の感触のようで、失われた何かがふたたび手の中に戻ってきたようだった。

しかし、その共有は長くは続かなかった。彼はやがて遠ざかり、私は再び一人になる。この繰り返しの中で、私たちは何を学び、何を失っているのだろう。孤独とは何か、それは本当に最後には消え去るのか。その答えを私はまだ見つけられずにいる。

結局、私たちが抱える問いは、形を変え、時を超えても変わらない。愛と疎外、接近と離反。これらはすべて、私たちが社会的生命体である限り避けて通れない道。その意味を私たちが理解し、受け入れることができる日はくるのだろうか。

静かに、風が吹く。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です