無音の木

寂寞の谷にひとつの木がありました。天に伸びる長い枝は青々として、風が吹いてもその音は聞こえません。世界がひっそりとした存在感に満ちていました。その木はそこで何年も変わらず、時の流れと共に老い、若い木々が目に見えて成長するのを静かに見守っていました。

ある日、病により老木の一部が枯れ始めました。老木は自身の変化を感じ取りながらも、静かにその運命を受け入れていました。元々、自己を有するものではなく、ただ在ることだけが仕事でした。しかし、以前から感じていた存在意義の問い、木としての役割とは何かという問いはやはり静かに心の中で燻っていました。

木の下には小動物や菌類が生息し、木が提供する栄養や実を食していました。彼らにとって木は生命の源であり、命の支えでした。しかし、木自体はその恩恵を感じる存在ではありませんでした。ただ、季節が変わり、日が昇り、また沈むそのリズムの中で知らず知らずのうちに無数の生命に影響を及ぼしていました。

季節はまた一つ過ぎ去り、冬の冷たい風が谷を覆い始めた時、老木の近くに人が住み始めました。病に冒された木を見つけて、彼は少しずつ枝を剪定し、樹皮を取り除いていきました。老木はその手の温もりを感じていました。無声で無音の世界で、初めて他者との接触を持ちました。木は少しずつ元気を取り戻し、新しい芽が生え始めました。

人は木が元気を取り戻すとともに、切り取った木の部分を小屋の燃料や家具作りに用いました。そして、彼は木の下で過ごす時間が長くなり、よく木に話しかけるようになりました。「君はここにずっといるのかい?」「僕はいつか離れるけど、君はどうするんだ?」

老木は言葉を理解することはできませんが、人との関わりから新たな感覚を知りました。彼の声の響き、触れる手の感触、そして周りの小動物や菌類が放つ生命の匂い。それらすべてが、木にとって新しい世界を開いていくようでした。そして、木は学びました。存在すること、少しずつ変わることが何かをもたらすのだということを。

人と同じように木も変化し、成長する。彼らは互いに影響し合いながら、それぞれの役割と存在意義を見出していくのです。そして、ある朝、人が谷を去る時が来ました。彼は老木に手をかざし、静かに言葉を残しました。「ありがとう、また会う日まで。」その日、初めて木の葉が風に揺れる音が聞こえました。それはまるで、別れを惜しむような、静かな囁きのようでした。

彼が去った後も、木はただそこに在り続け、谷の一部として存在し続けました。変わらないようで、少しずつ変化し、新しい命を育むために。

Silence reigns, yet life whispers quietly beneath.

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