風が記憶を纏う時

地球の上で、風は古い時代から運んできた記憶の粒子をまとい、街を漂っていた。見えない、触れられない、けれど確かに存在するこれらの粒子は、人々には感じ取れないが、風自体は自らの存在理由をよく知っている。風は、あるずっと昔から、散亡した感情や忘れ去られた言葉、過去の瞬間を世界中に運ぶ役割を担ってきた。

風は一つの公園を好んで訪れる。その場所で、風はしばしば静かに滞在し、一人の老婆がそこにやって来るのを待つ。彼女は長い時間をその場に座り、じっと空を見上げる。彼女の目には見えないが、風は彼女の周りを優しく撫で、かつて彼女が愛した人々の記憶を彼女に微かに感じさせる。

特に春の終わりごろ、風はこの老婆が若かったころの恋人の声を運ぶ。その声は、言葉ではなく、ただの感情の波紋として彼女の心に触れる。老婆はそれが何であるかを理解できないが、心地よい憂鬱と淡い喜びを感じる。彼女は微笑みながらも時折涙を流す。風は彼女の涙を新たな記憶として吸収し、さらに遠くへと運んで行く。

時間の概念が人間とは異なる風にとって、過去も未来も同時に存在する。風はかつて彼女が若かった公園の同じ場所を走り抜け、その時も彼女の側に同じように滞在していた。それは時空を超えた逢瀬であり、風にとっては連続した瞬間である。

この日、風は異なる何かを運んできた。それは形のない、新しい記憶の欠片であり、風自身もその起源を知らない。老婆の目の前で、風はそれを解き放つ。空気は微かに震え、時間が一瞬、歪むような感覚が公園を包む。老婆は首を傾げるものの、何も見えない空間を手で探る。彼女は何かを感じ取ろうとしているが、その試みは無駄に終わる。

風は再び動き出す。記憶を紡ぎ、時間の縫い目を旅する。老婆の存在は、やがて風にとっても過去の一部となり、その記憶の粒子はまた新たな風に乗ってどこかへと運ばれていくだろう。そして風は、未来にも過去にも向かって、ただひたすらに存在を繰り返す。

老婆は公園を後にする。風は彼女の背中を静かに押し、彼女の歩みを見守りながら、またどこか新しい場所へと流れていく。記憶とともに。

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